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April 04, 2005

テレビとインターネットの融合はむずかしい

ホリエモン騒動でテレビやラジオとインターネットの融合が、再び取り沙汰されるようにった。一体全体、この手の騒ぎは何度目だろうか。思い起こせば、AOLとタイムワーナーの合併の時も大きな話題になった。しかし、現実には両者の合併はみるも無残な結果となり、AOLは雲散霧消の体である。ホリエモンは、ブロードバンドが普及していなかったから、うまく融合できなかったというのだが、それだけだろうか。
 ブロードバンドが普及していることは事実ではある。だからといって、そのことがただちにインターネットとマスメディアの融合にはつながらないだろう。冷静に考えれば、一方向ではあるが現在のテレビ、ラジオの無線ほど大容量のブロードバンドはないだろう。インターネットがハイビジョン級の大容量の情報を、遍く送ることができるのはいつのことだうか。
 またブロードバンドが普及しつつあるといっても、そこにはまだまだハードの高い壁が立ちはだかっている。現在私が暮らすマンションは4年前に建設され、室内LANも入っている。しかし、光ケーブルを導入しようとしても、管理組合の許可がおりずにケーブルテレビのラインを使う以外にない。ケーブルの段階ですでにブロードバンド導入につまずいている。光ケーブルが導入できたとしても、そこにはケーブルどうにゅういじょゔに高い壁がそそり立っている。はたしてどれほどの人が自らの手でコンピュータに接続してインターネットをみることができるだろうか。コンセントにつないでスイッチを入れるだけのテレビとは大違いだ。IPアドレスの取得、プロバイダーへの接続などなど、田原総一郎氏は自分でインターネットに接続し、環境設定をしているのだろうか。
さらにインターネット環境を確保するには、最新のコンピュータが不可欠である。ウィンドウズ98や2000ではもはや時代おくれである。2~3年に一回、20万円はするコンピュータを買い換えることのできる人など数は限定されている。ちなみに私はワープロ機としてウィンドウズ95を愛用しているが、このマシンではインターネットには全く役に立たない。10年も経たないのに、もはやインターネット・マシンとしてはスクラップ同然である。一方十数年前に買ったテレビはさしたら故障もなく見ることができる。経済的にも技術的にもコンピュータはまだまだ成熟したハードとはいえない。
ソフトの面でもインターネットとテレビ、ラジオとは全く異なる。ホリエモンはテレビやラジオがインターネットのコンテンツになると考えているようだが、それは間違いといってもよい。テレビのコンテンツとインターネットは異なる。取り立ての生のトマトと冷凍のトマトが、同じトマトでは似て非なるものであるのに似ている。テレビのコンテンツは基本的には生鮮食料品であり、インターネットのそれは保存のために冷凍した食品や缶詰である。田原総一郎氏がハードディスクの発達で一週間分のテレビ番組が録画できることにびっくりして、テレビのありかたが根本から変わるとあちこちで吹聴している。しかし、これは生鮮食料品と冷凍食品や缶詰の差を無視した議論である。ハードに録画するというのは生鮮食品を冷凍するようなものである。解凍すればいつでも食べられる。しかし、作りたてとは全く異なる。朝食、昼食、夕食の区別なくいつでも好きなときに食べられる。しかし、はたして、起き抜けに夕食要の食事を解凍して食べたいと思うだろうか。
テレビは時間帯を考慮して作られている。日本のテレビは特にそうである。深夜番組を朝一番で見ても全く面白くない。ましてや朝向けの番組を深夜に見ても白けるばかりだ。また季節も考慮してある。正月には正月番組が、春秋の番組改編期にはお祭り番組が放映される。正月番組を夏にみても、これまた季節はずれの間の抜けた番組でしかない。インタネッードでテレビのコンテンツを流すとしても、昼夜、季節に無関係なコンテンツでしか視聴する気にはならないだろう。それは映画やドキュメンタリー、音楽番組など比較的限られている。つまりテレビのコンテンツは時間という要素に大きく左右されるのである。時間性を無視したコンテンツの議論はテレビ、特に日本のテレビについて語るにはふさわしくない。
アメリカでテレビとインターネットの融合が容易に議論できるのは、アメリカのテレビには時間という要素が希薄だからである。国土が広大でいくつかの時間帯に分かれる米国では同時性はむずかしい。ニュースでさえ録画が多用される。つまりアメリカのテレビのコンテンツは基本的には冷凍食品や缶詰なのである。三大ネットワークのプライムタイムの番組に映画が多いのも、こうした背景がるあのかもしれない。アメリカのテレビ番組がつまらないのは、時間という要素が希薄だからである。また多チャンネル化がすすんでいるのも、アメリカの視聴者が日本人よりも時間性をあまり気にかけないからである。しかし、テレビに時間性はほんとうは不可欠である。その証拠に「俺たちひょうきん族」の元番組であったサタデーナイトライブがヒットしたのは時間性を配慮したからであろう。土曜日の夜にライブで放送されたからこそ面白いのであって、月曜日の朝に見ておもしろいと思うのは一部のオタクくらいだろう。要するに映画はインターネット向きのコンテンツだが、テレビのコンテンツの多くはインターネットには不向きだ。またアメリカは映画の文化、日本はテレビの文化。同じ映像でありながら、両者は全く異なる映像表現である。同じ映像だからにといってテレビと映画の映像の差異を無視して、アメリカの例を引きながらインターネットとテレビの融合の議論をするのは全く空論にすぎない。
ホリエモンがフジテレビを乗っ取ったとして、インターネットで「笑っていいとも」を見たいと思い、実際にインターネットに接続できて、なおかつ、ひょっとして有料になった場合に金を払ってまで見たいと思う視聴者がはたしてどれほどいるだろうか。ホリエモンや田原総一郎氏が描くほどインターネットとテレビの融合の未来は明るくない。
蛇足ながら、筆者は初期のワープロ時代からコンピュータに関心を持ち、パソコン通信を経てインターネットもイリノイ大学での実験段階から利用していた。その上でいうのだが、インターネットの議論は常に楽観と悲観があまりに極端すぎる印象を持っている。私はホリエモンや田原氏ほど楽観的にはなれないが、かといってインターネットとマスメディアの融合が不可能だとは思わない。映画、特にAVにとってはインターネットは明るい未来が待ち受けているだろう。

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April 02, 2005

ホリエモンと山崎晃嗣と麻原彰晃

 五十歳代以上の人なら、実際のニュースや本で光クラブ事件のことは知っているだろう。最近では保阪正康が『真説光クラブ事件』を出版したので、和歌ョ人でも知っている人もあるかもしれない。また今週号の週刊文春でもグラビアの特集で取り上げており、にわかに光クラブ事件に注目が集まるようになった。
 要はホリエモンと光クラブ事件の山崎晃嗣はよく似ているということだ。それは両者ともアプレゲールの倫理観の崩壊の中で、金だけが唯一の価値という点でまったく変わるところはない。半世紀もの時を経て同じ倫理観をもった人間が現れたというのは、アプレゲールの倫理観の崩壊のなかでは唯一頼れるのは金だけということなのか。片や第二次世界大戦、片や第三次世界大戦とでもいうべき冷戦の終焉が倫理観の崩壊をもたらしたのだ。
 ホリエモンは麻原彰晃にも似ている。容貌ではない(容貌もかも?)。麻原は言葉で、ホリエモンは金で、人々に夢を与えている。信ずれば幸せになれる、金さえあればなんでも買える。しかし、言葉も金も、いずれも幻想や虚構でしかない。ホリエモンが麻原に似ているように、ライブドアはオウムに似ている。いずれも信者の集団が組織を支えている。かれらのまわりに集まっている連中(乙部女史も含め)がなぜかオウムに二重写しに見えるのは私の錯覚だろうか。ライブドアがオウムに似ているのは拝金教という宗教集団の様相を呈しているからであろう。
 こうして考えてみると、ホリエモン騒動は経済の問題ではなく、倫理や宗教の問題として理解するほうが正解ではないだろうか。

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