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May 29, 2005

靖国問題とニーチェ

靖国問題とニーチェ
 靖国問題の本質は、結局のところ、ニーチェの言う「良心の疚しさ」と「ルサンチマン」の問題にある。つまり日本人にとって靖国神社は韓国や中国をはじめアジア諸国の植民地化に対する「良心の疚しさ」の象徴であり、他方、韓国や中国にとってそれは「侵略」され植民地化されたことへの「ルサンチンマン」の象徴である。「良心の疚しさ」と「ルサンチマン」の関係が解消されない限り、そして韓国や中国の「赦し」がない限り、靖国問題の解決はない。しかし、韓国や中国が日本に、デリダの言う「赦しえないものを赦す」という意味での「赦し」を与えたとき、日本は未来永劫道徳的な「負い目」を背負わされるだろう。なぜなら、キリストが磔刑によって罪を犯したユダヤ人そして人類の罪を贖いその後の西洋のキリスト教道徳を確立し、一方道徳的劣位に立たされたユダヤ人が迫害されたように、「謝罪」の機会を失う日本もまた永遠に「負い目」を背負って生きていかねばならなくなるからである。
 意識するかしないかは別にして、靖国問題は「良心の疚しさ」と「ルサンチマン」をめぐる論争でしかない。日本における靖国問題の核心は、どれほど韓国や中国に「負い目」を感じ「良心の疚しさ」に心を痛めるかにある。したがって靖国問題についてのさまざまな論争、たとえば首相の靖国神社公式参拝は政教分離に違反するか否かの憲法問題、神道は宗教か習俗かという文化問題、内政、外交のいずれを優先すべきかという政治問題、A級戦犯の合祀、分祀問題など、いずれも枝葉末節の問題にすぎない。首相の靖国神社参拝に反対する人々は、いかにわれわれ日本人が「負い目」や「良心の疚しさ」を感じなければならないかを強調し、一方支持する人々は、いかに「負い目」や「良心の疚しさ」を感じる必要などないかを力説する。その論争は具体的には、明治以降の日本の武力による対外進出を肯定するか否かをめぐって闘わされる。
明治以降の日本の対外進出の評価は、三つに大別できる。第1は全面的に正戦として肯定。第2は1928年のパリ戦条約締結後の満州事変以前は正戦として肯定、以降は侵略戦争として否定。第3は植民地戦争として全面的に否定。
第1の立場は、国家中心的なホッブズ的世界観に基づく対外戦争全面肯定論である。ホッブズ的世界観やそれを下敷きにした弱肉強食を肯定するスペンサーの社会進化論など、当時の政治・社会思想を考えれば、他の欧米列強がそうしたように日本もまた対外武力進出したことは正当化できる。また対外的な武力進出の是非はともかくも、国家に忠誠を誓い死んでいった人々を追悼、顕彰するのは国家を維持していくためにも当然であるとの立場に立つ。
第2の立場は、多中心的なグロチウス的世界観に基づき国際法や条約に基づく対外戦争の是々非々論である。この世界観は条約や国際法などに基づく制度を重視するところから、1928年に調印され日本では翌年に批准されたパリ不戦条約を基準とする立場である。批准以後は「国家の政策の手段としての」戦争を放棄することを約束した以上、「自存自衛」とは言い難い満州事変およびそれを契機とする以後の戦争については否定もしくは是認しがたいとする立場である。したがって、A級戦犯についての責任は残るが故に、分祀やむなしとの立場をとる者もいる。
第3の立場は、人間中心的なカント的もしくはルソー的な世界観に立って、日本の武力進出によって多くの市民が被害を受けたことを考えれば、明治以降の日本の対外武力進出はすべて悪として否定される。国家ではなくあくまでも国家を超えた市民の立場に立つが故に、戦いで死んだ人々を追悼するのならまだしも、国家のために死んだことを理由に国家が顕彰することは許されない。したがって国家のために死者を顕彰することを目的に首相が靖国神社を参拝することはもちろん靖国神社の存在も無宗教の国立墓地も許されない。要は死者の追悼は個人の問題であり、国家の問題ではないとする立場である。
このように明治以降の日本の対外武力進出に対する立場は、結局のところどのような世界観に依拠するかに再度還元できる。しかし、いずれの世界観に依拠するにせよ、宗教あるいは無宗教を問わずいかなる形であれ、戦死者を追悼、顕彰することは国家や共同体を維持、存続させていく上で欠かせない。靖国神社は日本国家に一身を捧げた、そして沖縄の「平和の礎」は日本国家の犠牲になった人々を顕彰し追悼する施設であり、いずれもその死は公的なものであり、その意味で靖国神社も「平和の礎」もその本質は変わらず、両者は紙の裏表の関係にある。つまり靖国神社は裏「平和の礎」であり、他方「平和の礎」は裏「靖国神社」である。
結局、靖国問題の要とは、戦争による死をどのように位置づけるか、つまり国家のための死なのか、国家による死なのかという、残された子孫の立ち位置の違いでしかない。いずれの立ち位置をとるかは、とどのつまりその人の世界観、人生観でしかない。だからこそ靖国問題はニーチェ的な「赦し」もしくは「忘却」がない限り、解不能なのである。

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