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March 29, 2007

日本核武装論

 一頃盛んだった日本核武装論がめっきり最近はきかれなくなった。アメリカの有形、無形の圧力を受けて政治家や研究者が口をつぐんだのか、あるいは議論することさえ無意味だと皆が諦観したのか。こうした「言論封殺」、「思考停止」の現状に義憤を感じて、西部邁が『核武装論-当たり前の話しをしようではないか』(講談社現代新書、2007)を最近出版し、日本核武装論を主張した。
 その中で西部は「専門人は、一体いかなる根拠で『核』という多側面の問題に言及できるのかと問うてみるべきです」(7頁)と「専門家」を挑発している。続けて「『日本が核武装すればアメリカが核燃料を供給してくれなくなるので、原子力発電の必要上、”核”は論外』と断定する、それが専門人のやり方です」(8頁)と「専門家」を批判する。他方で、彼の批判の対象の一人(西部は特定していないが)と思しき軍事「専門家」田岡俊次は『北朝鮮・中国はどれだけ恐いか』(朝日新書、2007)で、上記の理由を根拠に日本核武装論に反対している。
 西部であれ田岡であれ、両者の意見の相違は詰まるところ日米関係をどうするかということにつきる。より具体的に言えば、米国の「核の傘」の信頼性である。西部は他国に自国の安全保障を委ねることの国民精神の不健全性を批判し、他方田岡は現状の日米関係を踏まえて「『核の傘』はないよりまし」(118頁)と消極的に肯定する。西部はまた、核武装による単独防衛があってはじめて米国との対等な同盟関係を結ぶことができると主張する。他方、田岡は米国が最も恐れているのは日本の核武装であり、「核武装論は日米対決を招く」(118頁)と強調する。
 どちらの意見が正論か、という問いかけは、あまり意味はない。身も蓋もないことを言えば、とどのつまりは「核の傘」の信頼性、反米か親米かによってどちらの意見をとるかが決まるからだ。どちらの意見を選ぶか、全ては個々人の主体的な判断に委ねられる。個々人といっても、その個人が置かれた立場によって判断の基準が異なることは言うまでもない。政治家、専門家、一般国民によって判断基準はさまざまである。異なった判断基準あるいは価値観や世界観を議論することで政策を決定するのが民主主義であろう。参考の意見の一つとして、西部の挑発に乗って、自称「専門家」の立場からあえて日本核武装肯定論を展開したい。
 核武装の技術的問題については、ここでは扱わない。原料となるプルトニウム、核兵器製造技術、運搬手段となるロケット等、日本には核兵器製造に必要な技術は全てそろっているように思われる。核兵器製造に必要な年月は、早ければ半年か1年、長くて5年など、専門家の間でも意見は異なる。専門家といったが、最大の問題は日本には核兵器の専門家がいないということである。なにしろ今まで核兵器を製造したこともなければ、計画、設計したことさえない。つまり核兵器の細部まで熟知した上で、技術的可能性が検討されているわけではない。その意味では核兵器製造で一番のネックは原材料や技術よりも技術者にあるかもしれない。
 技術的な問題を抜きにすれば、後は政治的問題である。国内政治的には憲法問題そして
唯一の被爆国としての国民感情がある。憲法が自衛権まで否定していないと考えるなら、核兵器を自衛の武器として位置づけることで、憲法問題は解決できる。国際法でも、核兵器の使用についてハーグ国際司法裁判所は1996年に次のような勧告的意見を出し、判事の判断は賛否同数となった両論となっている。
 「国際法の現状から見て、国家の存亡がかかる自衛のための極限状況では、核兵器による威嚇・使用が合法か違法かについて判断を下せない」。
国内世論がはたして核武装を指示するかどうかは、それこそ、西部が国民のふがいなさに切歯扼腕しながら、国民を鼓舞しようとしている。それが効を奏するかどうかは今のところ不明だ。民主主義であればこそ、かつてのスウェーデンのように国民が感情的にではなく理性的に核武装を十分に議論した上で否決することは多いに推奨されるべきである。そのための一助としてこの議論も展開している。ただ、予想されるのは、議論以前に感情的に政治家、メディア、専門家も含め多くの国民がノーをつきつけるだろう。それは願い下げにしてほしい。
 さて冒頭でも述べたが、日本核武装の最大の問題は「核の傘」の信頼性の問題であり、日米の相互信頼の問題である。日本が核武装を主張すれば、それは米国の核の傘を信頼していないと米国はとらえるであろうし、必然的に日米間の相互信頼が低下するということになる。その時米国がどのような対応をとるかである。田岡の言うようにはたして日本の核武装は日米対決を招くだろうか。
 田岡はこう述べる。「第1に考えるべき問題は、核抑止は相手の理性的判断を前提にしている」が故に、金正日が理性的なら、日本に核攻撃を加えれば「米軍などの通常攻撃(航空攻撃)でも国の命脈を断たれることは明らかであり」(111頁)、そのような非理性的なことはしない。だから、米国の「傘」は必要だという結論だ。しかし、田岡は、何故か米国の「傘」を「ないよりはまし」と、積極的に信頼しているわけでもないようだ。ここは、素直に考えて、日本が核武装して自ら傘を持ったほうがよいのではないか。それができないのは、田岡によれば以下のような理由からだ。
 「日本核武装の第2の問題は、そのためには日本がNPT(核不拡散条約)から脱退せざるをえず、そうなると米国と対立関係に入る可能性が高い」(田岡、113頁)。日本がNPTから脱退すれば、「日米原子力協定は当然破棄となるだろうし、ほかの諸国(英仏中加)やユーラトム(欧州原子力共同体)との協力協定もおそらく破棄となろう」(116頁)。そして「おそらく米国は他国と協調して日本の在外資産凍結や貿易の停止をはかり、核関連施設に対する『外科手術的攻撃』をちらつかせるなど北朝鮮に対したのと同様の手法を使い、しかも経済・技術大国の日本が核武装をすれば世界の体制が変わるだけに、必至の圧力をかけて核開発を止めさせてNPTに戻らせようと努めるだろう。日本がそれに屈したとしても、双方に反感が残り、日米関係は緊張、対立から敵対に向かう公算が大きい」(116-7頁)。
 この田岡の予測ははたして合理的だろうか。本当に「米国は他国と協調して日本の在外資産凍結や貿易の停止をはかり、核関連施設に対する『外科手術的攻撃』をちらつかせるなど北朝鮮に対したのと同様の手法を使」うことなどできるのだろうか。日本の在外資産凍結や貿易停止」をはかれば、その影響は米国のみならず世界全体に波及するのではないか。日本は中国についで巨額の米国国債を保有している。逆に日本が国債を売却すると言えばどうだろうか。
 また日本との貿易を停止すれば、米国もまた経済的に大きな打撃をこうむるのではないか。日本は北朝鮮とは比較にならないくらい経済規模が違う。北朝鮮でさえ、経済制裁は必ずしも有効ではなかった。ましてや米国をはじめ世界の多くの国が返り血を浴びてまで日本への経済制裁を科すだろうか。歴史上、世界第2の経済大国に経済制裁を科した事例を寡聞にして知らない。日米間に政治的な信頼があろうがなかろうが、経済での相互依存関係はおいそれとは揺るがないのではないか。
 加えて軍事専門家の田岡がなぜ「外科手術的攻撃」などというのか全く理解できない。そもそも同盟国を攻撃すると恫喝することができるのだろうか。百歩譲って「外科手術的攻撃」するからには米国は攻撃の前に日米同盟を破棄するだろう。ではアジアでの最大の軍事拠点である沖縄や横須賀などの在日米軍基地を放棄するのだろうか。また在日米軍基地を放棄した上でどうやって日本に外科手術的攻撃をしかけようというのだろうか。空母を太平洋や日本海に遊弋させるのだろうか。潜水艦から巡航ミサイルを発射するのだろうか。ところでその空母や潜水艦の母港は横須賀ではなかったのか。さらに百歩譲ってグアムや本土から派遣する米軍機動部隊で攻撃を試みるとして、プルトニウムを抽出あるいは貯蔵している核関連施設に対する「外科手術的攻撃」ができるのだろうか。万一核汚染を引き起こした場合、その責任を全て日本に負わせるのだろうか。イスラエルでさえ、稼働中の原子炉を攻撃することが躊躇われたからこそ、イラクのオシラク原子炉を稼働前に攻撃したのだ。
 また田岡は「経済・技術大国の日本が核武装をすれば世界の体制が変わるだけに、必至の圧力をかけて核開発を止めさせてNPTに戻らせようと努めるだろう」と述べている。そうかもしれない。また、イスラエルやインドそしてパキスタンの核保有を黙認したように、「世界の体制」変わったとしても、それが米国の国益に反しない限り、やはり黙認あるいは容認する可能性もまた否定できない。感情論としてはともかく、日本の核武装が100パーセント米国の国益に反するという合理的、説得的な論をいまだに聞いたことはない。
 田岡はNPT体制が「非合理、不平等な条約であり、しかも95年の期限切れの際にそれが永久条約となったことは実に不愉快である」(117頁)と多いに不満を述べている。にもかかわらず、次のような理由からNPT体制を支持している。「NPTがまったく力を失い、どの国も自由に核兵器を製造して輸入も輸出もできるようになれば、世界は著しく危険となるし、世界の安定が大事な日本にとって自らNPT体制を崩壊させるのは国益上不利があまりにも大きい」。
 日本だけでなく「世界の安定」は全ての国とって大事である。だからといって、NPTが効力を失えば、ただちに「どの国も自由に核兵器を製造して輸入も輸出もできる」というのは論理の飛躍ではないか。核兵器を製造できる国は限定されている。NPT体制は核兵器の原材料となる核物質の管理をしているだけである。通常兵器で言えば、火薬の原料や火薬の製造を管理しているだけである。核兵器を管理するにはコンピュータや工作機械、遠心分離機などの製造技術の管理、ミサイルのような運搬手段の管理などまだ多くの方法があり、実際にワッセナー協約やミサイル管理体制などで管理されている。これらを強化することでも管理はある程度可能である。 また仮に核兵器を製造しても、国連武器登録制度のように輸出入に関して新たな取り決めや条約で規制することは可能である。
さらにNPT体制が崩壊すれば世界が不安定化するとは限らない。むしろ、かつて米国の国際政治学者モートン・カプランが思考実験したようにどの核兵器保有国も相互核抑止のために戦争ができない「単位拒否体系(unit veto system)」になり、どの国も外交的に身動きのできない究極の安定が訪れる可能性もある。というよりも、冷戦時代の米ソの相互抑止、あるいは現在のインド・パキスタンの戦略的安定を見ると、「単位拒否国際体系」になり世界が安定する可能性のほうが高い。
 田岡は日本核武装を否定しているが、では北朝鮮や中国の核の脅威からどのように日本は防衛するかという具体論になると、第1に核シェルターの設置、第2にミイサル防衛、第3に米国の「核の傘」を挙げている。しかし、これらはいずれも「ないよりまし」という程度のものとみなしている。「ないよりまし」の裏返しは、「あればよい」であり、このあればよい方策こそ、田岡は否定するが日本の核武装である。軍事合理的には核武装、しかし政治的妥当性としては非核政策というのが田岡の結論であろうか。
 冷静に理詰めに考えれば、日本が核武装を決意すれば米国はそれを止めることはできない。米国にとって日本の核武装は不愉快ではあろうが、経済制裁や外科手術的攻撃をしてまで阻止する必然性はないし、現実には実力で阻止することはほぼ不可能である。本当に米国が日本を信頼しているのなら、日本が核武装したとしてもその信頼関係は崩れないだろう。英国やフランスのように対等な関係で同盟関係を維持することも可能である。田岡が言うように、日本が核武装「できない」否定的な理由にはあまり根拠がないということだ。
 だからといって、では、日本が核武装をする積極的な根拠はあるのだろうか。この問いは折をみてあらためて検討する。現時点では、以下のようなことを考えている。
①短期的には北朝鮮に対する核抑止。
②中期的には核抑止によるアジア地域の安定化。
 東アジア「非」核地帯構想ではなく、東アジア核地帯構想。
③長期的にはNPT体制に代わる核管理体制の樹立
 テロや犯罪組織など非国家主体への核の垂直拡散防止体制の確立

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March 27, 2007

イラク戦争は先制攻撃か予防攻撃か

 いくつかの質問をいただいたので、以下に回答したいと思います。
「第一に、予防原則の概念は安全保障の分野へと適用することができるのかという問題です。そもそも予防原則の概念はsafetyの議論の中で発生し精錬されてきたものです。納家政嗣が言うように、safetyとsecurityは重なる部分も多いが両者は分けて論じられるべきもの(納家政嗣「人間・国家・国際社会と安全保障概念」『国際安全保障』(No.30: 2002))だとするならば、上記のような問題が発生すると思うのですがいかがでしょうか」。
 丁度『国際安全保障』のNo.30: 2002だけが手元になく、納家先生の議論が確認できませんでした。 ただ、「予防原則の概念は安全保障の分野へと適用することができるのか」との問題提起ですが、安全保障論では一般に予防攻撃(preventive attack)の議論は、「克服し得ない無知」の時代からあったと考えるべきでしょう。というのも「克服し得ない無知」は予防原則の概念と表裏一体と考えられるからです。「克服し得ない無知」の概念が廃れていったのは、予防原則の概念が正当化できなかったからではないでしょうか。貴兄(?)も第2の質問で次の「予防原則が『克服し得ない無知』としてjus ad bellumに加えられ」と書かれているように、やはり安全保障の概念から発展してきたのではないでしょうか。safetyとsecurityの概念の差を確認しないままにこれ以上議論を進めるれば、謬見をさらすことにもなりかねませんので、この問題についてはここで止めます。
 第2に、「それは(予防攻撃に正当性を与えれば)主権平等の原則を法的に崩壊させ、現在の階層的な秩序に、まるで後追いのように、正当性を与えるということになるのではないでしょうか」(括弧加藤)というご質問です。
 予防(先制)攻撃の法的権利は全ての国に平等に与えられます。したがって、「主権平等の原則を法的に崩壊させる」ことにはならないのではないでしょうか。もちろん、ご説のとおり実態的には国家間に予防(先制)攻撃能力能力には甚だしい懸隔があります。それは予防(先制)攻撃の議論に限りません。あらゆる分野において、主権国家は法的には平等、実態的には不平等です。これは、ロバート・コヘインの言う形式的主権(formal sovereignty)と機能的主権(operational sovereignty)の問題です。機能的不平等の是正が必要なことはいうまでもありません。しかし、実現は極めて困難です。
第3の「予防原則の適用範囲」の問題です。「予防原則とは、早い話が『疑わしきは辞める(罰する)』ということです。非国家主体への垂直的拡散が懸念されているから予防戦争が正当化されるのならば、劣化ウラン弾など科学的には解明されてはいないが、健康被害などとの因果関係に疑いをもたれているものにも適用されるべきではないでしょうか」。
これは「予防」と「先制」概念の混乱ではないかと思われます。小生が主張しているのは「予防」攻撃(preventive attack)ではなく、「先制」攻撃(preemptive attack)です。
つまり最高度の緊急事態に遭遇した国家が、その手段を取らなければ国家が危殆に瀕するかもしれないと指導者が判断した時に、相手側の攻撃を受ける前に先制的に攻撃することは自衛権の行使として認められるということです。マイケル・ウォルツァー、スタンレー・ホフマンをはじめ多くの(米国の)論者が冷戦時代から先制自衛の正当性を支持しています。イラク戦争が非難されるのは、「予防」攻撃と断じられることが多いからです。しかし、いずれも「第1撃」に変わりはないとはいえ「予防」か「先制」かは、「克服し得ない無知」によって生じた脅威を、誰がどのように判断するかによって決まります。攻撃された側は「予防」攻撃といい、攻撃した側は「先制自衛」攻撃というのが常です。小生が問うているのは、「克服し得ない無知」に基づく「先制自衛」の立場からイラク戦争には正当性があるのではないかということです。
参考までに、「予防」と「先制」の問題については吉崎知典「国際秩序と米国の先制攻撃論」『国際安全保障』(第31巻第4号、2004年3月)をご覧ください。

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March 25, 2007

核テロは国家を破滅させるか

 核テロの被害について、以下のような質問を受けました。
「確かに、テロリストの核爆弾利用による物理的損害は大きいと考えられます。しかしながら、核テロは国家滅亡に直結するのでしょうか?シンガポールのような規模の都市国家なら一撃で国家機能が破綻するかもしれません。しかし、国家規模の大きい米国やロシア、中国もテロリストの核一発が国家機能の致命傷になるのでしょうか。たとえば、北京で核爆弾が一発炸裂したところで、上海も広州は生き残ります。数十年前から核戦争を想定して国家を運営してきたアメリカでも、ワシントンに一発核が落ちたからといってアメリカの国家機能は止まらないでしょう」。
この問題を考える時、国家滅亡とは何か、について整理しておく必要があるでしょう。国家の滅亡とは、戦争による国土の荒廃、国民の死滅などの国家の物理的な滅亡、あるいは他国による占領や国家の分裂、権力の交代による体制崩壊といった国家の制度的滅亡があります。こうした国家の滅亡は歴史上枚挙に暇がありません。
 しかし、現在の主権国民国家システムでは、一部の例外を除けば、歴史に見られるような国家滅亡はあまりありません。たとえばアフガニスタン、ソマリアなどの破綻国家のように実質的に国家が滅亡しているということはあっても、形式的、国際法的には国家は滅亡せず依然として存続しています。もっとも、共産主義イデオロギーの破綻にともなうソ連やユーゴスラビアあるいは東独のように共産国家の「国家滅亡」という例外はあります。
 つまり現代における滅亡とは、国力の低下という意味にとってよいでしょう。したがって質問の内容は、こう置き換えることができるでしょう。「ワシントンに一発核が落ちれば、アメリカの国力はどの程度低下するか」。
 国家間の核戦争なら、ある日突然核ミイサルが飛んでくることはありません。核攻撃に備える時間はあります。仮に15分いや10分でもあれば、核シェルターや地下室などに逃げ込むことが可能で、政治家、官僚を含め政府中枢への被害は最小限に食い止められるでしょう。
 しかし、核テロは、予告無しに、突然おこることが予想されます。核ミサイルのように飛翔するわけでもありません。政府機能が完全に麻痺する危険性も否定できません。たしかに国土は残ります。国民の大半は生き残るでしょう。しかし、政治が麻痺すれば、内政、外交にどのような影響を与えるでしょうか。実のところ、だれもわかりません。また首都の壊滅が国民に与える心理的影響も全く予測不能です。首都壊滅、政府壊滅がきっかけとなってアメリカは国家衰退の道を歩むかもしれません。
 最近、イラク戦争で米国は衰退の道を歩んでいると考える人々が出始めています。もし、その説が正しいとするなら、9.11こそ米国衰退の契機となったと、後世の史家は論評するでしょう。核テロでなくても国家滅亡の危険性を孕んでいます。1914年6月サラエボでテロリストが発射した銃弾が第1次世界大戦を引き起し、結果的にオスマン・トルコ帝国、そしてオーストリア・ハンガリー帝国も滅亡した例を思い起こしてください。
 核テロはたしかに物理的破壊力という意味で従来のテロとは比較になりません。しかし、テロの本質はあくまでも心理的暴力です。核テロそのもの物理的破壊で国家が滅亡するというよりも、より厳密には核テロの物理的破壊が心理的暴力に転化し、国家に滅亡の道を歩ませる契機なるのではないか。
 アメリカのような近代国家であればあるほど、国家は脆弱になります。ガラス細工の国家は、一個の石でも瓦解します。

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March 21, 2007

コメントへの回答

 反論をありがとうございます。文字とおり渇望しておりました。
 さて、「『克服し得ない無知』の現代への適応可能性を提唱するならば、その現状を追随することよりはむしろ、あの状況で「『克服し得ない無知』の概念が適用されるべきだったのか、という議論がなされて然るべきではないでしょうか」とのご指摘、全くご高説のとおりです。
 私はこうした議論が起こることを切望しておりました。しかし、現在にいたるも核兵器の有無やネオコンへの感情的な反発ばかりで、少なくとも日本では「克服し得ない無知」に基づく議論が無かったことに正直がっかりしています。
 「国家を壊滅させるだけの破壊力を持った核兵器すなわち核弾頭を彼らは保持しているのでしょうか。そしてそれを搭載するミサイルは配備されているのでしょうか。百歩譲って、それらが渡っていたとしましょう。では、彼らはそれらを打ち上げる為に必要なプラットフォームを持っていたのでしょうか。そして打ち上げるに十分な技術を持っていたのでしょうか」とのご質問については、以下のようにお答えします。
 核弾頭ではなく核爆発装置であれば、ミサイルのようにプラットフォームは不要です。核テロには迎撃のおそれのあるミサイルのようなプラットフォームはかえって不向きです。だれにも気取られることなくしかけることが重要です。KGBがスーツケース型核爆弾を開発したのも、アメリカなどの西側諸国に密かに持ち込むためでした。
ちなみに「何故9・11はミサイルではなく旅客機だったのでしょうか。スーサイド・アタックなぞしなくても、ミサイルを持っていれば攻撃できたではありませんか」とのご質問ですが、ミサイルと旅客機の自爆では破壊力が桁違いです。ミサイルは大型でもせいぜい一トン程度の弾頭しか搭載できません。炸薬量では恐らくTNT で6~700キロ程度です。
他方、ワールド・トレード・センターに激突した旅客機一機が放出したエネルギーはTNT火薬1000トンに相当します。つまり北朝鮮の核実験よりも放出エネルギー量は多かったのです。小型核爆弾の威力です。旅客機の特攻が小型核爆弾なみの威力になることをアルカイダが知っていたかどうかはわかりませんが、2~300キロ程度の爆薬ではビルを崩壊できないことは、1993年の自動車爆弾によるワールド・トレード・センター爆破事件で十分承知していたと思います。
 「こう見ると、失礼ですが、加藤先生の議論は少し荒すぎるような気がしてなりません。長尾が言うように、イラク戦争は「予防原則」を国家安全保障に応用した事例であることは確かです。しかし、その原則を適用するべきであったか否かという議論もまたなされるべきではないのでしょうか」との、ご批判、ご提言まことにそのとおりです。あえて挑発し公論を喚起せんがために「克服し得ない無知」の議論を持ち出しました。
畏友長尾雄一郎氏が執筆した「防衛力三つの役割」(http://www.nids.go.jp/disemination/briefing/2003/pdf/200301.pdf)でも、あえて「プリエンプション」の議論を避けています。核テロの脅威を払拭できない今日、是非「克服し得ない無知」に基づいた正戦論を議論したいものです。
(追記)ignorantia invincibilisを「克服し得ない無知」「超えられない無知」と訳してきましたが、「克服し得ない無知」に統一します。

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テロ時代の核拡散と「克服し得ない無知」

 もしテロ組織に核兵器が渡れば、核テロは防ぎようがない。従来の相互確証破壊に基づく核抑止戦略は全く通用しない。そもそも自爆を覚悟したテロリストやテロ組織に命は無いぞ、全滅させるぞと脅しをかけたとしても彼らは何の痛痒も感じないだろう。恐らく破壊だけを目的としたテロリストが核兵器を持てば、何のためらいもなく核兵器を使用するだろう。いったん破壊目的のテロリストに核兵器がわたれば、もはや彼らに核兵器の使用を思い止まらせる術は無い。テロリストに核兵器が渡らないようにする以外、核テロを防ぐ方法はない。
 ではどのようにして核兵器をテロリストに渡らないようにするか。第1はNPT体制の強化である。ただしNPTは国家への核兵器の水平拡散を防ぐ核管理体制である。必ずしも、テロ組織のような非国家主体への垂直核拡散を防ぐ体制ではない。もちろん、現状では核兵器の開発は国家以外には不可能であり、NPT体制を強化すれば必然的に非国家主体への核拡散は防げるはずである。しかし、現状のNPT体制が必ずしも十分に機能していないことは万人の知るところである。
 条約で核兵器の保有を認められているのは米・ロ、英、仏、中の五カ国のはずなのに、インド、パキスタンそして北朝鮮が核兵器保有国となった。イスラエルが核兵器を保有していることは今や公然の秘密である。過去一時期、南アフリカも核兵器を保有していた。ただしマンデラ黒人政権誕生の際、黒人に核兵器が渡ることを恐れたデクラーク白人政権が廃棄したといわれている。また旧ソ連が解体する過程で、ウクライナ、カザフスタンが一時期核兵器保有国となったこともある。両国とも自ら核兵器保有を拒否し、今では非核国である。
 これだけではない。密かに核兵器開発を目指した国は多い。台湾は南アフリカと共同で核兵器開発を目論んだといわれている。また今は断念したが、かつてはリビアも核兵器の開発を夢見たことがある。現在はイランが核兵器を開発しているのではないかと疑われている。そしてイラクは核兵器開発を実際に試み、核兵器の存在を最後まで疑われ、結局イラク戦争を招いた。
 このようにNPT体制は核兵器が国家間に水平拡散を完全には防止できない。ということは、もとよりNPT体制に束縛されるとはない非国家主体への垂直拡散も防止できないと考えるのが合理的であろう。
 非国家主体が独自に核兵器を開発することは、兵器級のプルトニウム、ウラン等原材料の入手がきわめて困難なために、ほとんど不可能である。しかし、テロ組織が完成品の核兵器を入手する可能性は否定できない。たとえばソ連解体の過程でKGBが開発したといわれるスーツケース型核兵器が何個か行方不明になっているとの噂は絶えない。また、やはりソ連解体の過程で核地雷、核砲弾など小型の戦術核兵器が紛失した恐れは今なお消えない。あるいは、ある国家が意図的に密かに核兵器をテロリストに渡す可能性も否定できない。冒頭にも述べたように、いったんテロリストにわたればもはや核テロは防ぎようがない。その「ある国家」をアメリカはイラクとみなした。
 北朝鮮のように核兵器を保有したと宣言すれば、金正日が合理的である限り大量報復による核抑止は効く。万一テロリストに核兵器を渡し、それが対米テロに使われるようなことがあれば北朝鮮を核報復攻撃するぞ、と威嚇してテロ組織に核兵器を渡さないようにすればよい。
 しかし、イラクのように核兵器(あるいは大型の核爆発装置であっても)をはたして持っているかどうかわからない「克服し得ない無知」では状況は全く異なる。万一イラクがアルカイダに核兵器を渡し、それが対米テロに使われたとしてもアメリカはイラクに核報復はできない。なぜなら通常の国家テロ同様に、イラクが核兵器をアルカイダに渡したことはもちろんイラクとアルカイダとの関係を反駁の余地なく立証することなど事実上不可能だからである。立証できないままに核報復などすれば、国内外から猛烈な非難を浴びることになる。
 1986年にレーガン政権が西ベルリンのディスコ爆破テロにリビアが関与したとして同国を報復爆撃したことがある。その時の国際世論の反発は激しく、同盟国のスペインからは爆撃機の領空通過を拒否されるほどであった。その後リビアが関与したことをカダフィ自身が認めたが、当時は明確な証拠はないとしてレーガン政権に批判が集中した。
 核テロを防ぐためにアメリカがとりうる選択肢は二つしかない。先制攻撃でイラク政権を打倒し核開発を止めるか、事実上核兵器開発を容認して大量報復で「核保有国」イラクを抑止するかである。後者はあまりに危険が大きいとブッシュは判断し、前者を選択したのである。ちなみに北朝鮮に対して米国は後者の選択肢を選んだようだ。
 核兵器開発を止めるのに査察を続ければよかったのではないかとの批判は根強い。しかし、イラクの核開発は70年代の後半から続けられており、湾岸戦争で計画を破棄させられたものの、その後イラク戦争にいたるまで査察に対しては曖昧な態度をとり続けてきた。その結果「克服し得ない無知」の状況がつくりだされたのである。9.11後の切迫した状況の中でブッシュ「時は我に味方せず」と判断し、開戦に踏み切った。結果的にイラクは核兵器も持っていなかったし、開発もしていなかった。その点でブッシュの判断は政策論的には間違っていたが、だからといってイラク攻撃が誤っていたことにはならない。問題はテロ時代の核拡散において「克服し得ない無知」を理由とする戦争が正当かどうかということにある。私は、今もなお正当と考える。異論、反論を乞う。
 

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March 20, 2007

イラク戦争はなおも正戦である

 イラク戦争開戦から早4年が経過した。イラクはシーア派とスンニ派の内戦状態にあり、米軍は二進も三進も行かない状態に陥っている。戦争反対派はまるで鬼の首でもとったかのように勝ち誇り、開戦派を批判している。「百万人いえども我行かん」の気概をもって、私はなおイラク戦争は正戦であると主張したい。
 開戦直後に私は日本平和・安全保障研究所のブログ(http://www.rips.or.jp/Institute/rips_eye_no16.html)にイラク正戦論を展開した。その要旨は、戦争の被害よりも経済制裁の方が非人道的であり、したがって、経済制裁を停止するために戦争の方がましだという功利主義的判断に立つ正戦論である。これに対する異論、反論は、今に至るも全く無い。
 ブッシュが開戦に踏み切ったのは、戦争をしなければ、核兵器によるテロの危険が増大するとの功利主義的判断だったといわれる。結果的に核兵器が無かったからブッシュの判断は間違っていたことになる。この一点をもってイラク戦争は間違いであったとブッシュは内外からの非難を浴びている。
 しかし、大量破壊兵器があったかどうかということと、内戦によってイラクが混乱していることとは全く別の問題である。たしかに結果的に大量破壊兵器はなかった。だからイラク戦争は間違いだったというのは、その議論そのものもが間違いである。なぜなら、仮に大量破壊兵器があったらイラク戦争は正しいということになるからである。それは単なる結果論にすぎない。
 政治においては動機の善悪ではなく結果の正誤が問題となる。その意味でブッシュの政策判断は誤っていた。しかし、それはあくまでも政策論における誤りにすぎない。戦争そのものが正しいかどうかは別の問題である。
 戦争が正しいかどうかの判断基準は、倫理そして国際法にある。前述のブログで私がイラク戦争を正戦であるといったのは、倫理の視点からみて、兵糧攻めそのものである経済制裁は戦闘員よりもむしろ非戦闘員に多くの犠牲者を出すからである。それ故に、精密誘導兵器の多用により非戦闘員の犠牲が少ない戦争よりも経済制裁は非人道的であり、したがってイラク戦争は倫理的に正戦であると主張した。
 ここでは視点を変えて、国際法の視点からイラク正戦論を展開したい。中世の戦争法には「克服し得ない無知(ignorantia invincibilis)」という概念がある。それは、「国家みずからが正当な原因にもとづいていると判断し、しかも、そのように判断することが、状況からみてやむをえないとみられるような無知によるものである場合には、客観的にみて正しいとはみられない原因にもとづいて戦争を行った場合であっても、かならずしも不正な原因によるものとして非難することはできないという考え方」である(田畑茂三郎「差別戦争観と無差別戦争観」『平和の思想』講座平和学II、早稲田大学出版部、1984年、140-1頁)。
 この概念に基づく正戦論は、かえって予防戦争や先制攻撃を誘発するということで、次第に主張されなくなった。通常兵器であれば、たとえ最初に先制攻撃を受けたとしても反撃できる時間や能力をもつことができるために、通常戦争では「克服し得ない無知」は有害無益である。その後正戦論は姿を消し、戦争には正、不正はないという無差別戦争観が流布し、1928年のケロッグ・ブリアン条約以降は自衛戦争以外に正戦は認められなくなったのである。
 しかし、今日核兵器がテロ組織にまで拡散するかもしれないという状況下で、この「克服し得ない無知」という概念は再考する必要がある。というのも、通常兵器と違って、核兵器の場合には最初の一撃で国家が壊滅する恐れがあるからである。先制自衛が主張される所以である。また先制自衛の根拠の一つとなるのが「克服しえない無知」である。
 イラク戦争をこの根拠から説明すれば、こうなる。イラクが核兵器を保有しているのではないかという恐れはイラク戦争に反対している人々も持っていた。絶対に無いということがわからない、すなわち「状況からみてやむをえないとみられるような無知」の状況では、あるかないかがわからない状況で戦争を行うというのはおかしいという「客観的にみて正しいとはみられない原因」に基づいて戦争を行ったとしても、「必ずしも不正な原因によるものとして非難はできない」。つまり「克服し得ない無知」という観点に立てば、イラク戦争は核拡散時代における新たな正戦として認められるというのが筆者の立場である。
 イラク問題は撤退か否かをめぐって、冷酷なハト派(イラク国民を見捨ててさっさと撤退せよ)、爪の無いタカ派(軍事力一辺倒ではなく現実を見据えてイランやシリアとの協力を仰げ)そして獰猛なフクロウ派(断固正戦を貫徹せよ)の三つ巴戦である。治安回復のための特効薬は軍隊が撤退して、民間軍事会社にまかせることだ。政治的リスクが無い分、軍隊よりも使いやすいし、またゲリラ戦では軍の特殊部隊よりも優秀だ。ブッシュ政権は核拡散時代の正戦論を主張しつつ、民間軍事会社による治安回復に努めるのが最善の策だろう。


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北朝鮮凍結口座全面解除と日米同盟(07年3月20日)

 米国が北朝鮮に全面屈伏した。これまで断固として拒否してきたマカオの銀行「バンコ・デルタ・アジア(BDA)」の北朝鮮関連口座の凍結を米財務省は解除した。事前には部分解除という見方が強かった。しかし、蓋を開けて見れば、全面解除である。六カ国協議を担当する北朝鮮代表金桂冠外務次官が余裕しゃくしゃくで最近の対米交渉に臨んでいたわけがこれでわかった。
 ニューヨークでミュージカル『プロデューサーズ』を見る余裕があったのも当然だ。『プロデューサーズ』の主人公達のようにハッタリで牢屋にぶち込まれるのか、それとも最後にはミージカルが大当たりしてハッピーエンドの結末を迎えるのか、『プロデュサーズ』の主人公達に似て、金桂冠外務次官とヒル国務次官補のこれからどんなドタバタ喜劇を演じるのだろうか。などと、のんびりして米朝の三文ミュージカルを見ている余裕は日本には無い。
 米国が凍結していた北朝鮮の銀行口座を全面解除したということは、ブッシュ政権が北朝鮮を事実上の核保有国として認めたことに他ならない。イラクのように、おいそれとは予防攻撃ができなくなったということだ。とにかく外交交渉を通じて危機管理をする以外に方法がなくなった。北朝鮮は国が滅んでも核兵器を手放さないだろうし、核開発は続けるだろう。米国も、それは先刻、承知だ。だからこそ米国としては、ひたすら時間を稼いで、危機管理態勢を構築していくしかない。
 しかし、米国の、この対北核危機管理態勢の目論見は端から矛盾している。北朝鮮の凍結口座解除は、同様に核開発計画を進めているイランへの政策に少なからぬ影響を与えるだろう。というのも米国は北朝鮮の口座凍結にならって、2006年からイランのサーデラート銀行に対する制裁を発動しているからである。同年9月8日に米国財務省はテロ組織との資金取引を理由に制裁を発動し、同銀行との取引を全面停止する措置をとっている。また今年1月7日に米財務省は、核やミサイル開発の資金を融資しているとの理由からイランのセパ銀行の資産凍結と取引停止を実施した。二つのイランの銀行への一連の制裁措置は他の銀行にも多大な影響を及ぼし、イラン政府に大きな打撃を与えている。
 北朝鮮の口座凍結とあわせて、銀行制裁が効果的であることがわかってきた矢先での対北全面融和政策への転換である。核開発を阻止するという同じ理由を掲げながら、北には全面解除する一方、イランに対しては制裁を強めるというのでは平仄があわない。ひょっとすると米国はもはや核拡散の防止を諦め、核拡散を前提とした新たな核危機管理態勢に政策転換したのではないか。ウォルツやミャシャイマーのように、核は拡散した方が安定するという核戦略論を主張する戦略家も米国には多い。
 そういえば米国の対イラン政策にも融和の動きが見られる。1979年11月のテヘラン米国大使館占拠事件を契機に両国は断交し、以後不倶戴天の敵として会議での同席を拒んできた。それがこの3月10日にバグダッドで開催されたイラク安定化会議で両国は同じテーブルについた。イランに対してもイラクの安定化への協力を条件に早晩、制裁解除が解除されるのではないか。かくして米国の核拡散防止戦略は次々と崩落していく。
 ブッシュ政権がウォルツらの言う「拡散安定」の戦略論に基づいて対北朝鮮政策を展開しているのならまだ安心できる。日本も核武装すればよいのだから。「拡散安定」論に基づくなら米国も日本の核を容認するだろう。そうではなく、単にイラクでの情勢悪化から国内外の世論をそらすために対北核政策を利用したり、また政権が終わるまで事無きを得んがための単なる時間稼ぎであれば、日本にとって事態は深刻だ。世論対策や時間稼ぎであれば、結局は相手の言うことを受け入れざるを得ないからだ。ブッシュ政権は凍結口座の全面解除の次は何を受け入れるのだろうか。恐らくは米朝国交正常化だろう。
 米朝国交正常化が実現するには日本の拉致問題が解決し、米国が北朝鮮をテロ支援国家のリストから外さなければならない。人権問題にうるさい米国が拉致問題の解決なくしてテロ支援国家のリストから北朝鮮を外すことは無い。だから米朝国交正常化は困難というのが大方の見方である。また日本赤軍を匿っていることも、米国が北朝鮮をテロ支援国家リストから外さないもう一つの理由と言われる。
 しかし、この見通しはあまりに楽観的である。凍結口座を解除したということは、北朝鮮がテロやマネーロンダリングとは無関係ということにお墨付きを与えたことになる。資金面からみて北朝鮮はテロ支援国家では無いのだ。
 加えて最近の米国における慰安婦問題の盛り上がりである。つまり米国が北朝鮮の主張に同調して慰安婦問題を拉致問題以上に重大な人権問題とみなせば、米国世論は日本よりもむしろ北朝鮮に同調するだろう。不思議なことに六カ国協議が再開される見通しがたった今年にはいってから、にわかに慰安婦問題が米国内をにぎわせ始めた。日系のマイク・ホンダ議員が米下院議会で「慰安婦に対し日本政府に謝罪を求める決議」を提出している。ニューヨークタイムズも社説で慰安婦問題を取り上げ日本政府を非難した。さらにシーファー駐日米国大使も本国の新聞では「強制的に売春をさせられたのだと思う。つまり、旧日本軍に強姦(ごうかん)されたということだ」と述べ、不快感を示している。
 六カ国協議にあわせるように韓国同様に反日親北の世論が米国で形成されつつあることには注目しておく必要があろう。いずれ、この問題が大きくなれば、かつてベトナム戦争の泥沼から脱け出すために米中関係正常化が日本の頭越しで行われたように、イラク戦争の苦境から脱け出すために米朝国交正常化が実現する可能性がある。米朝国交正常化が実現すれば、必然的に北朝鮮の後ろ楯となっている中国と米国との友好関係が深まる。それは、逆に日米同盟の重要性が低下するということである。要するに北朝鮮凍結口座全面解除とは日米同盟弱体化もしくは解消の第一歩なのだ。心せよ、諸君!

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