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March 29, 2007

日本核武装論

 一頃盛んだった日本核武装論がめっきり最近はきかれなくなった。アメリカの有形、無形の圧力を受けて政治家や研究者が口をつぐんだのか、あるいは議論することさえ無意味だと皆が諦観したのか。こうした「言論封殺」、「思考停止」の現状に義憤を感じて、西部邁が『核武装論-当たり前の話しをしようではないか』(講談社現代新書、2007)を最近出版し、日本核武装論を主張した。
 その中で西部は「専門人は、一体いかなる根拠で『核』という多側面の問題に言及できるのかと問うてみるべきです」(7頁)と「専門家」を挑発している。続けて「『日本が核武装すればアメリカが核燃料を供給してくれなくなるので、原子力発電の必要上、”核”は論外』と断定する、それが専門人のやり方です」(8頁)と「専門家」を批判する。他方で、彼の批判の対象の一人(西部は特定していないが)と思しき軍事「専門家」田岡俊次は『北朝鮮・中国はどれだけ恐いか』(朝日新書、2007)で、上記の理由を根拠に日本核武装論に反対している。
 西部であれ田岡であれ、両者の意見の相違は詰まるところ日米関係をどうするかということにつきる。より具体的に言えば、米国の「核の傘」の信頼性である。西部は他国に自国の安全保障を委ねることの国民精神の不健全性を批判し、他方田岡は現状の日米関係を踏まえて「『核の傘』はないよりまし」(118頁)と消極的に肯定する。西部はまた、核武装による単独防衛があってはじめて米国との対等な同盟関係を結ぶことができると主張する。他方、田岡は米国が最も恐れているのは日本の核武装であり、「核武装論は日米対決を招く」(118頁)と強調する。
 どちらの意見が正論か、という問いかけは、あまり意味はない。身も蓋もないことを言えば、とどのつまりは「核の傘」の信頼性、反米か親米かによってどちらの意見をとるかが決まるからだ。どちらの意見を選ぶか、全ては個々人の主体的な判断に委ねられる。個々人といっても、その個人が置かれた立場によって判断の基準が異なることは言うまでもない。政治家、専門家、一般国民によって判断基準はさまざまである。異なった判断基準あるいは価値観や世界観を議論することで政策を決定するのが民主主義であろう。参考の意見の一つとして、西部の挑発に乗って、自称「専門家」の立場からあえて日本核武装肯定論を展開したい。
 核武装の技術的問題については、ここでは扱わない。原料となるプルトニウム、核兵器製造技術、運搬手段となるロケット等、日本には核兵器製造に必要な技術は全てそろっているように思われる。核兵器製造に必要な年月は、早ければ半年か1年、長くて5年など、専門家の間でも意見は異なる。専門家といったが、最大の問題は日本には核兵器の専門家がいないということである。なにしろ今まで核兵器を製造したこともなければ、計画、設計したことさえない。つまり核兵器の細部まで熟知した上で、技術的可能性が検討されているわけではない。その意味では核兵器製造で一番のネックは原材料や技術よりも技術者にあるかもしれない。
 技術的な問題を抜きにすれば、後は政治的問題である。国内政治的には憲法問題そして
唯一の被爆国としての国民感情がある。憲法が自衛権まで否定していないと考えるなら、核兵器を自衛の武器として位置づけることで、憲法問題は解決できる。国際法でも、核兵器の使用についてハーグ国際司法裁判所は1996年に次のような勧告的意見を出し、判事の判断は賛否同数となった両論となっている。
 「国際法の現状から見て、国家の存亡がかかる自衛のための極限状況では、核兵器による威嚇・使用が合法か違法かについて判断を下せない」。
国内世論がはたして核武装を指示するかどうかは、それこそ、西部が国民のふがいなさに切歯扼腕しながら、国民を鼓舞しようとしている。それが効を奏するかどうかは今のところ不明だ。民主主義であればこそ、かつてのスウェーデンのように国民が感情的にではなく理性的に核武装を十分に議論した上で否決することは多いに推奨されるべきである。そのための一助としてこの議論も展開している。ただ、予想されるのは、議論以前に感情的に政治家、メディア、専門家も含め多くの国民がノーをつきつけるだろう。それは願い下げにしてほしい。
 さて冒頭でも述べたが、日本核武装の最大の問題は「核の傘」の信頼性の問題であり、日米の相互信頼の問題である。日本が核武装を主張すれば、それは米国の核の傘を信頼していないと米国はとらえるであろうし、必然的に日米間の相互信頼が低下するということになる。その時米国がどのような対応をとるかである。田岡の言うようにはたして日本の核武装は日米対決を招くだろうか。
 田岡はこう述べる。「第1に考えるべき問題は、核抑止は相手の理性的判断を前提にしている」が故に、金正日が理性的なら、日本に核攻撃を加えれば「米軍などの通常攻撃(航空攻撃)でも国の命脈を断たれることは明らかであり」(111頁)、そのような非理性的なことはしない。だから、米国の「傘」は必要だという結論だ。しかし、田岡は、何故か米国の「傘」を「ないよりはまし」と、積極的に信頼しているわけでもないようだ。ここは、素直に考えて、日本が核武装して自ら傘を持ったほうがよいのではないか。それができないのは、田岡によれば以下のような理由からだ。
 「日本核武装の第2の問題は、そのためには日本がNPT(核不拡散条約)から脱退せざるをえず、そうなると米国と対立関係に入る可能性が高い」(田岡、113頁)。日本がNPTから脱退すれば、「日米原子力協定は当然破棄となるだろうし、ほかの諸国(英仏中加)やユーラトム(欧州原子力共同体)との協力協定もおそらく破棄となろう」(116頁)。そして「おそらく米国は他国と協調して日本の在外資産凍結や貿易の停止をはかり、核関連施設に対する『外科手術的攻撃』をちらつかせるなど北朝鮮に対したのと同様の手法を使い、しかも経済・技術大国の日本が核武装をすれば世界の体制が変わるだけに、必至の圧力をかけて核開発を止めさせてNPTに戻らせようと努めるだろう。日本がそれに屈したとしても、双方に反感が残り、日米関係は緊張、対立から敵対に向かう公算が大きい」(116-7頁)。
 この田岡の予測ははたして合理的だろうか。本当に「米国は他国と協調して日本の在外資産凍結や貿易の停止をはかり、核関連施設に対する『外科手術的攻撃』をちらつかせるなど北朝鮮に対したのと同様の手法を使」うことなどできるのだろうか。日本の在外資産凍結や貿易停止」をはかれば、その影響は米国のみならず世界全体に波及するのではないか。日本は中国についで巨額の米国国債を保有している。逆に日本が国債を売却すると言えばどうだろうか。
 また日本との貿易を停止すれば、米国もまた経済的に大きな打撃をこうむるのではないか。日本は北朝鮮とは比較にならないくらい経済規模が違う。北朝鮮でさえ、経済制裁は必ずしも有効ではなかった。ましてや米国をはじめ世界の多くの国が返り血を浴びてまで日本への経済制裁を科すだろうか。歴史上、世界第2の経済大国に経済制裁を科した事例を寡聞にして知らない。日米間に政治的な信頼があろうがなかろうが、経済での相互依存関係はおいそれとは揺るがないのではないか。
 加えて軍事専門家の田岡がなぜ「外科手術的攻撃」などというのか全く理解できない。そもそも同盟国を攻撃すると恫喝することができるのだろうか。百歩譲って「外科手術的攻撃」するからには米国は攻撃の前に日米同盟を破棄するだろう。ではアジアでの最大の軍事拠点である沖縄や横須賀などの在日米軍基地を放棄するのだろうか。また在日米軍基地を放棄した上でどうやって日本に外科手術的攻撃をしかけようというのだろうか。空母を太平洋や日本海に遊弋させるのだろうか。潜水艦から巡航ミサイルを発射するのだろうか。ところでその空母や潜水艦の母港は横須賀ではなかったのか。さらに百歩譲ってグアムや本土から派遣する米軍機動部隊で攻撃を試みるとして、プルトニウムを抽出あるいは貯蔵している核関連施設に対する「外科手術的攻撃」ができるのだろうか。万一核汚染を引き起こした場合、その責任を全て日本に負わせるのだろうか。イスラエルでさえ、稼働中の原子炉を攻撃することが躊躇われたからこそ、イラクのオシラク原子炉を稼働前に攻撃したのだ。
 また田岡は「経済・技術大国の日本が核武装をすれば世界の体制が変わるだけに、必至の圧力をかけて核開発を止めさせてNPTに戻らせようと努めるだろう」と述べている。そうかもしれない。また、イスラエルやインドそしてパキスタンの核保有を黙認したように、「世界の体制」変わったとしても、それが米国の国益に反しない限り、やはり黙認あるいは容認する可能性もまた否定できない。感情論としてはともかく、日本の核武装が100パーセント米国の国益に反するという合理的、説得的な論をいまだに聞いたことはない。
 田岡はNPT体制が「非合理、不平等な条約であり、しかも95年の期限切れの際にそれが永久条約となったことは実に不愉快である」(117頁)と多いに不満を述べている。にもかかわらず、次のような理由からNPT体制を支持している。「NPTがまったく力を失い、どの国も自由に核兵器を製造して輸入も輸出もできるようになれば、世界は著しく危険となるし、世界の安定が大事な日本にとって自らNPT体制を崩壊させるのは国益上不利があまりにも大きい」。
 日本だけでなく「世界の安定」は全ての国とって大事である。だからといって、NPTが効力を失えば、ただちに「どの国も自由に核兵器を製造して輸入も輸出もできる」というのは論理の飛躍ではないか。核兵器を製造できる国は限定されている。NPT体制は核兵器の原材料となる核物質の管理をしているだけである。通常兵器で言えば、火薬の原料や火薬の製造を管理しているだけである。核兵器を管理するにはコンピュータや工作機械、遠心分離機などの製造技術の管理、ミサイルのような運搬手段の管理などまだ多くの方法があり、実際にワッセナー協約やミサイル管理体制などで管理されている。これらを強化することでも管理はある程度可能である。 また仮に核兵器を製造しても、国連武器登録制度のように輸出入に関して新たな取り決めや条約で規制することは可能である。
さらにNPT体制が崩壊すれば世界が不安定化するとは限らない。むしろ、かつて米国の国際政治学者モートン・カプランが思考実験したようにどの核兵器保有国も相互核抑止のために戦争ができない「単位拒否体系(unit veto system)」になり、どの国も外交的に身動きのできない究極の安定が訪れる可能性もある。というよりも、冷戦時代の米ソの相互抑止、あるいは現在のインド・パキスタンの戦略的安定を見ると、「単位拒否国際体系」になり世界が安定する可能性のほうが高い。
 田岡は日本核武装を否定しているが、では北朝鮮や中国の核の脅威からどのように日本は防衛するかという具体論になると、第1に核シェルターの設置、第2にミイサル防衛、第3に米国の「核の傘」を挙げている。しかし、これらはいずれも「ないよりまし」という程度のものとみなしている。「ないよりまし」の裏返しは、「あればよい」であり、このあればよい方策こそ、田岡は否定するが日本の核武装である。軍事合理的には核武装、しかし政治的妥当性としては非核政策というのが田岡の結論であろうか。
 冷静に理詰めに考えれば、日本が核武装を決意すれば米国はそれを止めることはできない。米国にとって日本の核武装は不愉快ではあろうが、経済制裁や外科手術的攻撃をしてまで阻止する必然性はないし、現実には実力で阻止することはほぼ不可能である。本当に米国が日本を信頼しているのなら、日本が核武装したとしてもその信頼関係は崩れないだろう。英国やフランスのように対等な関係で同盟関係を維持することも可能である。田岡が言うように、日本が核武装「できない」否定的な理由にはあまり根拠がないということだ。
 だからといって、では、日本が核武装をする積極的な根拠はあるのだろうか。この問いは折をみてあらためて検討する。現時点では、以下のようなことを考えている。
①短期的には北朝鮮に対する核抑止。
②中期的には核抑止によるアジア地域の安定化。
 東アジア「非」核地帯構想ではなく、東アジア核地帯構想。
③長期的にはNPT体制に代わる核管理体制の樹立
 テロや犯罪組織など非国家主体への核の垂直拡散防止体制の確立

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