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April 19, 2007

ミサイル防衛の無効性と核武装の有効性

 核武装反対論者の中に、核武装よりもミサイル防衛を優先すべきたという意見は根強い。その理由は、戦術、技術、世論等を総合的に判断するとやはり完全な防衛兵器であるミサイル防衛システムの構築が日本の防衛には相応しいという意見だ。
 私はミサイル防衛は技術的に完成できないと考えている。かつて米国にMDの調査にミ行ったことがある。そのときわたし質問した内容は唯一つである。それはミサイル防衛システムのコンピュータ・ソフトをどうやって書くのかという質問である。誰も答えられなかった。というよりも誰もそのようなことを考えてはいなかった。
 レーガン政権時代に今日のMDの原型となるSDI(戦略歩防衛構想、別名スター・ウォーズ計画)が計画されたことがあった。この構想が発表された時、あるソフトウェア工学者がSDIはソフトウェア光学上絶対にできないと断言し、結果的にそのとおりになった。というのもシステム全体のソフトウェアの行数が8000万行程度になると予測されたからである。これは事実上不可能な数字である。何年もかかって試行錯誤を繰り返しながら構築された銀行のオンラインシステムでさえ恐らく現在でも2000万行はいっていないだろう。試行錯誤が許されない上に、今なら一億行を突破するだろうMDシステムの複雑なソフトウェアを一体どうやって構築するのか。
 仮に機能ごとにモジュールに分割してコンピュータに書かせたとしても、問題は残る。それはコンピュータに書かせるためのソフトウェアを誰が書くのか。最終的にはシステム・エンジニアが書くしかない。またモジュールを組み合わせたて、システム全体としてうまく機能するかをチェックするソフトが必要になる。そのソフトを一体だれが書くのか。つまり命中率をたかめようとすればするほどソフトウェアは複雑になり、行数が爆発的に増大していく。このようにソフト技術においてMDが百発百中の命中率を得ることはできない。
 仮に百発百中のミサイル防衛システムでなくても、80~90パーセントでも撃墜できる可能性があれば、戦略的に相手に対する抑止力となるという議論がある。しかしMDを抑止力として考えるくらいなら核武装のほうが戦略的、戦術的にも、あるいは技術的、経済的にも合理的である。
 MDに意味があるとするなら、それは二つの理由からである。まずMDは日米の共同開発、共同運用であり自衛隊と米軍の一体化が進む。つまり日米間の信頼醸成、戦略的相互依存関係が強化され、日米同盟が文字通り一心同体となる。たたし、日本にとって問題は頭脳を米軍が握ってしまうということである。
 次に共同開発の過程でなんらかの技術的突破が期待できるということである。現在の兵器開発で技術突破が期待できるのはコンピュータ分野だけである。MD開発を通じて、量子コンピュータやバイオコンピュータといった新たなコンピュータ開発されれば、MDは満足いくシステムになるだろう。しかし、そうしたコンピュータが開発された場合、もはや核兵器が時代後れとなり、したがってMDも不要となる新たな社会がおとずれるだろう。
 残念ながら現在日本が受け持っているのはキネティック・ウェポンのセンサー部分だけである。日本の技術開発にあまり期待がもてない以上、そしてかりに技術突破があるにしても、それは随分先のこととなるだろうから、その間は脱兵器化核武装によって日本の抑止力を担保しておく必要がある。

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April 10, 2007

米軍の躓き

 イラクやアフガニスタンで米軍が苦戦している。この一事をもって、米軍は弱体化している、帝国どころか超大国でもない、といった極論までささやかれる始末だ。なぜ米軍が対テロ戦争に手を焼いているのか。それは、純軍事的に見れば以下のような理由からだ。
 第1に、最大の理由は対テロ戦争がLIC(低強度紛争)と呼ばれる非対称戦だということにある。つまり、米軍は国家の正規の軍隊で、一方はアルカイダのようなテロ組やタリバーンのようなイスラム民兵組織など非国家武装組織すなわち非正規軍で、アフガニスタン、イラク戦争は正規軍体非正規軍の非対称な戦いだということである。
 米軍はLICが苦手である。少なくとも第2次世界大戦以降米軍がLICで勝利をおさめたことはない。ベトナム戦争しかり80年代のレバノン紛争しかり。一般に正規軍はLICのような不正規戦を「汚い戦争」として忌み嫌う傾向がある。その上米軍はいわゆるベトナム症候群もあって特に不正規戦を嫌悪する感情が強い。LICという言葉もテロ、ゲリラ戦という言葉が嫌われたための言い換だ。
 たしかに80年代にはいって米軍はデルタ・フォースやシールズなど特殊部隊を強化したり新設してLICに対処しようとした。私はよく冗談でいうのだが、米軍の特殊部隊が活躍するのはハリウッド映画の中だけだ。実際には米軍はLICを戦った経験はほとんどなく、本格的にLICに対峙したのは今回のアフガニスタン、イラク戦争が初めてである。たとえばイラクのファルージャの戦闘でも米軍は特殊部隊よりも一般戦闘部隊を多く投入したようだ。その結果、一般住民巻き込んでイラク人に多数の犠牲者を出し、それがさらに一般民衆の反米感情に火を付け、LICを活発化させてしまった。
 非対称戦では圧倒的に正規軍が不利である。というのも正規軍は人道法によってさまざまな拘束を受ける一方、非正規軍は人道法を無視できるからである。米軍が一般市民を犠牲にすれば、世界中から轟々こる非難を受ける。しかし、テロ組織や民兵組織が一般市民を対象にした自爆攻撃をしても、そのことで世論が米軍ほどにテロ組織や民兵組織を非難することはない。つまり正規軍は常に倫理を要求されるのである。人道法に縛られた正規軍は手足を縛られたボクサーのようにまるでサンドバッグ状態に晒される。
 米軍がLICに対応できない軍事的な第2の理由は、自爆テロは米軍のRMA兵器以上に精密誘導兵器であり、米軍のRMA兵器をもってしても自爆テロには対応できない。いかにスーパーコンピュータであっても人間の頭脳ほどには柔軟に状況に対応できない。自爆テロはその意味でテロ組織にとっての絶対兵器であり最終兵器である。
 自爆テロには大がかりな組織も兵器もいらない。爆弾の専門家と火薬さえあればよい。イラクには掃いて捨てるほど爆薬に詳しい元軍人や遺棄された夥しい量の爆弾、砲弾がある。あとは自爆テロの志願者を募るだけだ。イスラムではその自爆テロ志願者にも事欠かない。殉教を夢見る若者は数限りなくいる。
 自爆テロを収容な戦術としたLICはこれまであまり見られない。1972年のテルアビブ空港乱射事件で日本赤軍が中東に自殺攻撃を持ち込んで以来、中東に自殺テロが蔓延するようになった。レバノン紛争でも対米テロに盛んに使われた。それにしても現在のイラクのように自爆テロと簡易爆弾だけのLICはこれまでに見られなかった戦術である。こうした戦術にはいかに米軍がRMA化したとしても、否、RMA化したが故に対応できないのである。
 このように軍事超大国といえども、否、軍事超大国であるが故にLICには対応できない。言い換えるならLICであればたとえテロ組織や民兵組織でも超大国は対峙できるとういことである。かつてアフガニスタンから英軍やソ連軍が撤退したように、今度は米軍が撤退することになるだろう。だからといってアフガニスタンやイラクに平和が訪れることはない。80年代のレバノンのように内戦は激化するだろう。

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April 08, 2007

平和学会の差別主義を質す

 これまで機会があるたびに平和学会の理事や関係者に問うているのだが、いまだに明確な回答を得ていない問題がある。それは、平和学会の会則第4条の差別問題だ。
「本会への入会は会員2名の推薦を要し、理事会の議を経て総会の承認を得なければならない。また、在外会員(留学生は除く)については、しかるべき研究機関の推薦状によって会員2名の推薦に代替させることができる。ただし、本会の研究成果が戦争目的に利用されるおそれのある機関あるいは団体に属するものは原則として入会できない」。
 この条項のただし書きは防衛省やその関連機関に属する者は入会を認めないという、一種の職業差別条項である。個人的な体験を明かせば、私は大学院に在籍していた1977年に平和学会に加入した。その後1981年に防衛庁の防衛研究所に研究の職を得て勤務することになった。その際、平和学会の知り合いから学会を辞めるようほのめかされ、不愉快な思いをかみ殺しながら脱会した。その時はじめて学会の会則に第4条の差別条項があることを知った。
 以後ことあるごとに平和学会の関係者に問い正しているのだが、だれも真っ当に答えてはくれない。何人も思想、信条、職業等で人を差別してはいけないのではないか。どのような人であれ、差別を受けないという基本的人権は守られるべきではないのか。とりわけ日頃から基本的人権の擁護に熱心な平和主義者がなぜ職業による差別を正当化しているのか、是非答えてほしい。平和主義者とは差別主義者の別名なのか。

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脱兵器化による日本の核武装

(承前)日本が核武装すべき第2の理由は、中期的な見通しにたった核抑止によるアジア地域の安定化にある。
 北朝鮮の核放棄は金正日体制が崩壊しない限りありえない。しかし、中国も韓国も、そして今では米国も、恐らくは日本を除いては関係諸国もどこも金正日体制の崩壊を望んではいない。となれば、北朝鮮は今後も核保有国であり続ける可能性は極めて高い。冷戦に考えれば、北朝鮮が会議のメンバーでいられるのは核兵器を保有しているからである。核をいかに政治カードとして使うか、そしていかに核を高く売りつけるか、北朝鮮にとって核は全てである。またいずれは南北朝鮮が、誰も望まない北の崩壊によってではなく平和裡に統一することになるだろうが、統一朝鮮は対日抑止として核兵器を保有し続けると考えたほうがよい。つまり、中国、極東ロシア、米国、北朝鮮あるいは統一朝鮮と日本を取り巻く諸国が全て核保有国となり、日本だけが非核となる。この軍事的不均衡な状態は、東アジア地域の不安定化を招きかねない。というのも常に中国や北朝鮮(あるいは統一朝鮮)そしてロシアさらにはアメリカが常に潜在的核保有国である日本の核武装を懸念し続けることになるからである。その懸念が日本と人を取り巻く諸国との政治的軋轢を生み、東アジアの安全保障を不安定化させる。したがって日本が核武装し、東アジア全体が核地帯化することで、核による地域の安定を図ることができる。
 さて日本が核兵器保有国となったとして具体的にどのような戦略、軍事態勢をとるべきかを検討してみたい。
 日本の核戦略は次のようにすべきと考える。
 第1は脱兵器化。これは核弾頭と運搬手段を分離して保管し、必要な場合には組み立てて核兵器化するのである。脱兵器化の概念は元来核軍縮の概念である。核軍縮ではまず核ミサイルの照準を外し、ミサイルを発射台から下ろし、そして核弾頭とミサイルを分離して脱兵器化し、最後に核弾頭から核物質を分離する。最終的にミイサルは破壊し核物質は核物質の民生レベルにまで純度を落として原子力発電の燃料等に再生利用する。
 日本の核武装は核軍縮とは逆の手順で進め、核弾頭とミサイルとを分離した脱兵器化レベルで止めておく。核弾頭は残存性を高めるために厳重に秘匿し、運搬体となる固形燃料ミサイルを陸上移動式のプラットフォームに搭載する。核弾頭とミサイルを分離保管することで第二撃の報復戦力としての残存性をさらに高めることができる。報復能力の即時性よりも報復能力の残存性が重要であり、核弾頭とミサイルの分離保管は軍事的に多いに意味がある。またミサイルの射程は東アジア地域を射程とする1500~2000キロの戦域程度とする。
 第2は最小限抑止。これは北朝鮮の核弾頭数と同等の核弾頭数を保有する。北朝鮮の核弾頭数にあわせて増加(場合によっては減少)させるのである。このことによって、日本は核弾頭を増減させるという外交カードを持つことができる。
 さてこの日本の核武装の最大の眼目は、第3の理由にある。それは核兵器の脱兵器化による軍縮を北朝鮮、中国をはじめ中国、米国、ロシアさらには英、仏、インド、パキスタン、イスラエル等の核保有国に呼びかけることにある。東アジア地域に関して言えば、かつてジョージア工科大学のジョン・エンディコット教授らが東アジア非核地帯構想を提案したことがある。これは朝鮮半島を中心に日本や極東ロシア、アラスカ、中国沿海部を含めた楕円形の地域を非核地帯化するのである。この案にそって、非核地帯ではなく、脱兵器化地帯として現在の核兵器レベルを下げていくのである。さらに東アジアだけでなく世界全体に脱兵器化を拡大していくのである。つまりイラン、シリアのように核武装したい国家には脱兵器化レベルまで核武装を認める一方、実質的な核軍縮を進めるのである。
 核兵器のノウハウがほぼ知れ渡った現在、兵器そのものを廃棄することよりも、兵器をいかに管理するかを考える方が現実的であろう。かつて日本では江戸幕府は各藩に対して軍役として一定の数量の銃や黒色火薬の備蓄を義務づけ、それ以上の製造は禁止した。幕府に歯向かうには足りないが、藩の威信や藩内の治安を維持するには必要な程度の武装を藩は許されたのである。その結果幕藩体制は二百数十年にわたって天下太平の治世を謳歌することができた。同様に、核兵器を脱兵器化して一触即発の状況を回避すると同時に、東アジア地域を非核による軍事的不安定化からも回避できるのではないか。さらには世界全体の核武装のレベルを落とすことも可能であろう。日本の核武装は矛盾しているようではあるが、世界的な核軍縮の第一歩となる。

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April 02, 2007

日本の核武装と北朝鮮の核

 日本が核武装をすべき第1の理由は北朝鮮の核の存在である。
 先年の「核実験」から北朝鮮の核兵器がどの程度の威力かについては諸説がある。田岡俊次は『北朝鮮・中国はどれだけ恐いか』(朝日新書、2007年)で、北朝鮮の核兵器がかなりのレベルでノドンにも積載できる一トン程度に小型化された核兵器であるは推測している。最悪に備えるという危機管理の視点から見れば、北朝鮮はすでに核ミサイルを保有しているとする田岡の説は十分に納得できる見解である。つまり、日本は北朝鮮の射程に入ったということである。
 さて標的となった日本にとって最も望ましい展開は、北朝鮮が核兵器を廃棄することである。しかし、はたして長い年月と莫大な資金を投入して実戦配備した核ミサイルを北朝鮮に放棄させることができるだろうか。表向き多くの人は可能と答える。実際、可能でなければ六者協議など不要だ。その実、本音ではほとんどの関係者が、難しいあるいは不可能という否定的な答えに終始する。いずれが正しいか、あたるも八卦、あたらぬも八卦などと八卦見のような無責任な態度を取ることは、メディアや評論家などの口舌の徒はともかく国民の安全を保障すべき政治家には許されない。北朝鮮は体制が崩壊しないかぎり、絶対に核兵器は放棄しない。この前提にたって、政治家は日本の安全保障政策を立案しなければならない。
 北朝鮮の核脅威に対する日本の安全保障政策は、現時点では日米同盟を強化することで米国の核の傘の信頼性を高めるということにつきる。問題は、核の傘の信頼性である。冷戦時代には、核の傘の信頼性が揺らぐことはあまりなかった。というのも、日米ともにソ連という共通の脅威に直面し、両国の国益は一致していたからである。しかし、冷戦が終わると同時にソ連という共通の脅威がなくなり、日米両国の利害が一致しないこともしばしばである。その結果、米国の核の傘の信頼性が大きく揺らぎつつある。
 日本の安全保障政策の根幹を日米同盟に委ねている限り、日米関係が日本の国家の存亡を左右する政治的構造は変わらない。だからこそ日本は核武装を中核とした自尊、自立の防衛体制をとり、対等な関係で日米同盟を結ぶべきだ、というのが西部邁が『核武装論-当たり前の話しをしようではないか』(講談社現代新書、2007)で万言を尽くして言いたかったことであろう。
 日米間の政治状況によっては核の傘が破れ傘になるのではないかとの懸念は、常に日米間の不安定化を招き、そのことがさらに米国の核の傘の信頼性を損ねる、悪循環に陥る恐れがある。たとえば自衛隊のイラク派遣のように、対米軍事協力によって日米同盟を強化し核の傘の信頼性を高めようとすると、日本国内からは対米追随であるとの政府批判や米国政府への反発が生まれ、かえって日米関係を不安定化させる恐れがある。また過去の植民地や慰安婦問題、靖国参拝問題のように本来は日米関係とは無関係な日本の歴史問題が米国内で問題視され米国の対日不信を招いて核の傘の信頼性を損ねる結果となっている。
 何よりも問題なのは、日本の核武装は米国の対日不信感の象徴となっていることにある。日本の核武装を米国が阻止しようとするのは、いつか日本が米国に牙を向くのではないかとの懸念である。80年代末に在沖縄米軍司令官スタック・ポール少将(当時)が「日米安保条約は日本の軍国主義を封じ込めるためのビンの蓋」と発言し、物議を醸したことがある。安保条約は米国の対日不信の表れだとするなら、はたして米国の核の傘は開くことがあるのか、という疑問が出てくるのは当然だろう。
 他方、日本の核武装を認めることは、対日信頼感の証となる。日本の核武装が日米の信頼関係を向上させ、信頼関係の向上が米国の核の傘の信頼性をさらに高め、日本の対北核抑止力を強化される。また日米の政治関係に左右されることのない基盤的防衛力としての核武装によって、日本は単独でも対北核抑止力を発揮できるようになる。
 日本がイギリスやフランス同様に米国の信頼できる同盟国であり続けるには米国はその証として日本の核武装を認めても問題はないだろう。(続く)

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