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April 15, 2008

立川ビラ配布有罪判決を支持する

 4月11日に最高裁が「ビラ配布は有罪」という判決を下した。この判決に対して朝日新聞は「表現の自由」という視点から一貫して反対の論陣を張っている。一見、朝日の主張は尤もに思われる。ただし、問題を子細に検討すれば、ことはそれほど簡単ではない。私は最高裁の判断を支持する。
 公共の場でのビラ配りなら、反対するべきではない。しかし、私有地においても表現の自由がゆるされるかというと、それは全く別問題である。この私有地におけるビラ配りという問題について朝日は意図的に捨象しているのか、あるいは私有地であっても表現の自由が優先されると考えているのか、いずれにせよ国家が介入すべき問題ではないと判断しているようだ。
 さて事件は、自衛隊のイラク派遣に反対するビラを「立川自衛隊監視テント村」のメンバー3人がアパートの各戸の新聞受けに投函したことに始まる。3人は住居侵入罪の現行犯で逮捕され長期拘留された。その後表現の自由をめぐって裁判で争われた。新聞受けにビラを配ることくらい何でもないではないか、というのが大方の見方なのだろう。しかし、かつてこの官舎に8年間暮らしていた私からいわせれば、住居侵入罪は当然と思われる。
 立川の官舎は航空自衛隊の施設に隣接して、5階建てのアパートが3棟(2棟だったかも)たっており、敷地の回りにはフェンスがある。特に門のようなものはなく、だれでも自由に出入りできる。だからこそ住人の不安は大きい。
 私が住んでいた1991年には湾岸戦争をめぐって、隣接する自衛隊の施設めがけて手製のロケット弾が撃ち込まれたことがある。下手をすれば官舎にあたる危険性もあった。また官舎のまわりには、「立川自衛隊監視テント村」のメンバーのように自衛隊員の行動を監視する風体の怪しい輩が時折徘徊していた。パトカーも重点的に巡回していた。
 官舎は下士官クラスの一般隊員が住む宿舎で、比較的若い隊員家族が多い。小さな子どもも多い。住人は、世間の自衛隊への風当たりが強くなればなるほど、日常生活でも緊張を強いられる。いつ子どもに危害が加えられるか、住居に侵入されるか、一般のアパートの住人とは異なる緊張の中で暮らしている。
 そこへ,部外者立ち入りの看板を無視し、なおかつ異様な風体(なぜか反戦ビラを巻く連中はバンダナを巻いたり、薄汚いジーパンを愛用しているのだろうか)の男女がアパートの一軒一軒にビラを入れたりすれば、住人が警戒するのは当然だろう。どうせ反戦ビラを配るのなら、幹部自衛官やキャリアが暮らす都心のアパートにしたらどうか。一般隊員は仕事として日々の業務をこなしているだけだ。有罪になった3人の職業をみてもあまり社会的にはめぐまれていないようだ。それだけに弱者が弱者を苛めているようで、表現の自由といった問題以前に、社会の悲しい現実を見せつけられているようで事件そのものには本当に哀れをもよおす。
 ところで、今回の判決をきいて多くの大学関係者がホッと安堵の胸をなでおろしていることだろう。もし、無罪判決が出れば、大学キャンパスで学外者が自由にビラ配りできるからである。大学構内には許可なく学外者の立ち入りを禁ずるという大学は多い。しかし、表現の自由を盾に学内でのビラ配りや宣伝活動を要求された場合何を根拠に断ればよいのか。この裁判が始まったとき、私は学生部長をしていて、学内でのカルト集団の横行に手を焼いていた。そのため少なからず、この裁判の行方には関心をもっていた。
 今日(4月15日)の『朝日新聞』「私の視点」で元国際キリスト教大学の教授の奥平康弘先生(なぜ東大名誉教授と名乗られるのだろうか。反権力を標榜する奥平先生にして東大の権威には弱いのだろうか。元大学教員でいいではないか。なんだか少し悲しい気持ちになった)が、朝日の社論にそった主張された。ICUでもし、カルト集団が学内でキリスト教を否定するビラ配りをしたとして、奥平先生は表現の自由を理由にカルト集団のビラ配りを擁護されるだろうか。朝日にしてからが、もし築地の朝日新聞本社の共用部分で右翼がビラ配りをしたら、表現の自由を理由に彼らを擁護するだろうか。たちどころにガードマンがきて、警察につきだされるだろう。
 だからこそ,この問題の背後には、反戦ビラを配布することは正義にかなっているとする暗黙の前提と、自衛隊員ごときが裁判に訴えるなどとはとんでもないとの自衛隊に対する抜き差しがたい蔑視があるように思われてならない。

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April 12, 2008

虐殺地巡礼-その2-

 3月1日(土) 午前8時にホテルを出発。キガリに近い二つの虐殺記念サイトを訪問する。
 最初に行ったのは、ンタマラ記念サイトだ。キガリ市内から20分程度の距離にある小さな村の教会が記念館になっている。残念ながら土曜日で中には入れなかった。しかし、教会の柵越しに粗末な建物の中に遺骨が安置されているのが見えた。一般公開するために特別につくられた施設というのではなく、犠牲者を追悼するために教会に遺骨を安置したということなのか。キガリ虐殺記念センターのホームページの説明によると、事件の際には5000人もの人々がこの教会に逃げ込んだという。
 ムランビ訪問の際にも感じたことだが、このような寒村でなぜ虐殺がおこったのか全く理解できない。私が教会の周辺をビデオで撮影していると早速近所の子どもたちが数人集まってきて、口々に何かを言っている。タクシーの運転手にかんたんな通訳をしてもらうと、教会の敷地に入る鍵はだれか村の人が持っているが、今いない、という。私が日本人だとわかると、子どもたちは口々にジャイカ、ジャイカと囃し立て始めた。そして教会の前にあった建物に行くと、そこにはジャイカの援助活動を記したリーフレットが窓にはさんであった。水利事業の援助でジャイカの日本人職員がここを訪れたようだ。
 ひとりの子どもが、私に手を差し出して、「ペン、ペン」と言い始めた。最初、なんのことかわからなかったが、ペンをくれといっていることがわかった。ジャイカの職員かボランティアの人なのか、ここまできてペンを配ったのだろう。昨年、カンボジアで子どもたちにペンを配ったことを思い出した。日本人をみるとペンをくれる人と思われることに、いささか複雑な心境にとらわれた。
 次に行ったのはニャマタ記念サイトだ。ここはンタマラから車で30分程のところにある。ンタマラ同様に小さな村の教会が記念館になっている。残念ながらやはり土曜日で教会はしまっていたために中にはいることができなかった。教会の裏手には墓地があった。キガリ虐殺記念センターのホームページの説明によると、この地区では約2500人が犠牲になったという。教会の前には広場があり、子どもたちが縄跳びやサッカーで歓声を挙げて遊んでいた。一昔前の日本の田舎の風景と変わらない。変わっているのは人々がアフリカ系の子どもだというだけだ。子どもたちの屈託のない笑い声をきくと、なぜここで虐殺が起きたのか、ますますわからなくなった。
 前日に行ったニャンザ、ムランビ、そてしンタマラ、ニャマタいずれの場所も水道も電気もほとんどないような寒村だ。もちろん虐殺事件当時には携帯電話もなかった。一体、どのようにして虐殺が起きたのか。ツチ族に対するフツ族の積年の恨みが原因といわれるが、なぜそれが一気に人々の間に広がり爆発したのか。ラジオが煽動したといわれるが、たしかにキガリのような都市ではそうかもしれない。しかし、地方の寒村ではラジオさえ十分に普及していなかったのではないか。『八つ墓村』ではないが、山間の小さな村の閉塞された空間、あるいはルワンダがアフリカの内陸に閉塞された国家だから起きた一種の集団ヒステリーなのだろうか。虐殺地の現場を訪れて得た唯一の教訓は、フツ族対ツチ族の民族対立という理解があまりに浅薄だということだった。

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April 11, 2008

虐殺地巡礼-その1-

翌日、タクシーを雇って、ニャンザ(Nyanza)のメモリアル・サイトとムランビ(Murambi)のメモリアル・センターに行く。
午前8時にホテルを出発。タクシーがキガリ郊外の幹線道路沿いにあるガソリン・スタンドで給油した。値段はリッター約150円と日本と同じか日本より少し高い。ちなみにケニアも約150円程度、ウガンダは約250円していた。計算のまちがいは無いと思う。ガソリンの値段が高いのは、一つには輸送費だと思う。ルワンダもウガンダも内陸国で、基本的にはタンクローリーの陸上輸送に頼っている。ケニアからウガンダに通ずる幹線道路を走る車の半分はタンクローリという印象だ。
 キガリからニャンザ、ムランビに南下する幹線道路は最近整備されたばかりと思われる立派な道路だった。EUの看板があちこちに出ていたから、EUの支援なのだろう。悪路を予想していたら全く違った。また車窓に流れる風景も、地元の人をみかけなければ、日本の南九州の県道をドライブしているような錯覚に陥る。緑に覆われた丘が連なり、車窓から入る風は心地よい。あらためてなぜこのようにめぐまれた自然環境の中で虐殺が起きたのか、不思議な思いが拭えなかった。
 ルワンダの地図を見ると、他の国の地図とは異なる点がある。それは教会の印が付してあること、そしてその数が多いことだ。実際にルワンダをを走ってみると、その実態がよく分かった。丘の上には必ずといってよいほど教会がたっている。またどんなちいさな村にも教会がある。ヨーロッパ諸国がアフリカを植民地化するということは、まさにキリスト教化していくこであったというのがよくわかる。カトリック57%、プロテスタント26%(日本外務省ホームページ)で国民の9割以上がキリスト教徒だ。他に4.6%のイスラム教徒がいる。キガリ市内にはモスクがある。本的にはキリスト教文明の道徳、倫理観が根幹になっているからか、私にはイスラム世界よりも違和感はなかった。
 キガリから2時間ほど走ったところで幹線道路を外れ、小さな村の中に入っていく。その先には大きな広場と、サッカー場なのかスタンドがついた運動場、そしてその一角に何の変哲も平屋の建物があった。だれも居ず、鍵がかけられていた。タクシーの運転手が、広場でトラックの運転の練習していた十数人の公務員のグループのひとりに訊くと、建物の裏手がニャンザのメモリアル・サイトだという。虐殺メモリアル・センターのホームページの写真には十字架が多数立てられた写真が掲載されている。しかし、現実は写真とは全く異なる。念を押して確認したが、やはりそうだという。建物は鍵がかけられ、窓はカーテンで覆われていたために外から中をうかがうことはできなかった。建物の裏手にまわると、キガリ・メモリアル・センターの集団埋葬墓地より二回りも大きい約5メートル×10メートルほどの一角全体がコンクリートの蓋で覆われていた(写真)。ここに多数の犠牲者が集団埋葬されている。
 ニャンザを後にして、ムランビのメモリアル・センターに向かってタクシーを走らせる。
ブタレという比較的大きな町の手前で右折し、西に向けて30分程走る。タクシーは幹線道路を外れて、谷に向かう未舗装の山道を下っていく。山道から見渡す風景は、日本の山並みを思い出させてくれる。およそ5分ほど走ると谷底に開けた平地に出る。そこにムランビ・メモリアル・センターがあった。
 ムランビ・メモリアル・センターと書かれた門(写真)を入り、200メートルほど行くとメモリアル・センターの建物があった(写真)。閑散としていて、職員と思しき人が3~4人建物の前で所在なげにたたずんでいた。ここもニャンザ同様に閉鎖中なのかと思ったら、白人の男性訪問客二人連れが建物から出てきたので、開館していることはわかった。タクシーの運転手に事情を尋ねてもらうと、建物の展示はまだ整備されていないが、安置してある遺体を見せるというので、職員の案内にしたがった。
 本館の裏手には元は小学校の教室だったという平屋の建物が7~8棟たっていた。一棟には20人くらいが入れる教室があり10ほどあった。職員が鍵を取り出して、教室のドアを開けると、異様な匂いとともに、台の上に横たわる数多くの遺体が目に飛び込んできた。遺体は全て白く防腐処理がされ、ミイラ化している。明らかにナタか棍棒か、鈍器で割られたと思われる頭蓋骨があった。写真をとっていいかときくと、ノープロブラムという。とはいえ一枚一枚丁寧に写真をとる心の余裕は全くなかった。ひたすらシャッターを押し、ビデオを回した。決して興味本位で写真をとっていたわけでないことだけは付け加えておく。この悲惨な様子は、多くの人が知るべきと思い、あえて公開する(写真)。
 最初の一棟だけで十分と思ったが、職員の人が熱心で全ての教室を案内してくれた。中には頭蓋骨ばかりか安置された部屋や子どもの遺体を集めた部屋もあった。頭蓋骨の多くには大きな穴があいていた。また集会場のような建物には、犠牲者が身に着けていた衣服が数多く保存されていた。まるでアウシュビッツのような情景だ。
 遺体を防腐処理して保存していることには本当に驚いた。いずれは、きちんと展示するという。空調もなにもない、ただ窓を黒いビニールのゴミ袋で塞いだだけの教室に、数百にものぼる遺体が安置されているとはおもいもよらなかった。カンボジアのキリング・フィールドを思い起こさせる情景だった。ただ、遺骨が展示してあったキリング・フィールド異なるのは、遺体が発する異臭だ。このニオイこそが彼らが犠牲者であることを強烈に思い知らせてくれる。
 本館の建物に帰ると、感想ノートが置かれてあった。驚いたことに、ルワンダのこの辺鄙な場所に、二日に一度の頻度で日本人が訪れていることだった。日本人も含め平均すれば一日に平均10人は訪れているだろうか。ルワンダに来ること自体なかなか困難と思われるのに、さらにキガリから3時間以上も離れたムランビまで足を運ぶのは本当に大変なことだ。日本人バックパッカーのバイタリティーに少し感心した。キガリ市内でも、明らかに日本人と思しき若いバックパッカーを二人みかけた。
 ちなみにキガリからムランビまでは乗合バスを使うかタクシーを雇う以外に交通手段はない。キガリ市内のバス・センターでギコンゴーロ行きに乗り、ギコンゴーロからは地元のバイク・タクシーか自転車タクシーを乗り継ぐ。ただし、ギコンゴーロ行きのバスがすぐに見つかるどうか、また見つかっても満員になるまでは出発しないので時間がなかなか読めない。時間に余裕があれば、安上がりなバスを使うのが最善の手段だ。タクシーについては運転手と料金の交渉をするしかない。私の場合は時間と安全を考慮して、後から考えるといささか法外と思われる料金を払って、二日に渡ってタクシーを借り上げ、虐殺の跡を巡礼した。

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キガリ虐殺記念センター訪問

 ルワンダを訪れた最大の目的は、虐殺の現場を訪問することにあった。到着したその日の午後キガリ郊外の小高い丘の上にたつ虐殺メモリアル・センター(http://www.kigalimemorialcentre.org)を訪れた。このセンターには最近アフリカ訪問中のブッシュ大統領が立ち寄ったとのことだ。ヨーロッパのNGO団体の援助で建設されたメモリアル・センターは、3階建てのこじんまりとした建物である。一階部分に虐殺の状況が写真やビデオなどで展示してある。また実際に虐殺に使用された武器が展示してあった。一説にはカラシニコフが使用されたといわれるが、展示品にはそのような近代兵器は全くなかった。展示されているのは、バナナを伐採するナタや、農作業に使うと思われる棍棒、それに植民地時代初期のものと思われる旧式の単発銃である。多くの人がナタで切られ、棍棒で頭を割られて死んだという。頭部をナタで割られた少女の写真がそれを証明している。またビデオでは、テレビでこれまで何度も放映されたが、ひとりの男が2~3人の男に取り囲まれナタで切り殺される様子を遠くから撮影したビデオが繰り返し流されていた。
 3階の会議室のような部屋では、中学生か高校生だろうか、先生と思しき何人かの大人に引率された数十人の生徒の集団がビデオを見ていた。部屋の外から盗み見すると、虐殺に関連したビデオだった。日本の生徒が原爆資料館に行くのと同じように、虐殺についての教育が行われているのだろうか。
 メモリアル・センターは内部の撮影が許されないどころか、外部の撮影さたゆるされない。センターの全景を写そうとカメラをかまえたところ、警備員に制止された。メモリアル・センターが一種の聖地になりつつあるのだろう。とはいえ、センターには写真やビデオの他にナタや棍棒などが展示してあるだけだ。カンボジアの刑務所跡のような生々しい展示はあまりない。またルワンダの虐殺以外にこれまで世界各地でおこったアウシュヴィッツ、アルバニア、コソボなどの虐殺事件のパネルが展示してあった。ちなみに南京のパネルはなかった。カンボジアのキリング・フィールドにあるような虐殺の跡や人骨が展示してあるわけではない。裏にある庭園の一角に3メートル×5メートル程度のコンクリート製の蓋で覆われた大きなお棺のような構造物があり、そこには多数の犠牲者が集団埋葬されている。蓋の上には紫のリボンをかけた花束が手向けられていた。メモリアル・センターの場所が実際の虐殺の場というわけではないようだ。虐殺現場は全土に散らばっており、そこには夥しい数の遺体や遺骨が残っている。

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ホテル事情

 ノボテルはルワンダのホテルの中では高級ホテルの部類だろう。最高級ホテルはセリナ・ホテルではないか。『ホテル・ルワンダ』の舞台になったホテルがミル・コリンズ・ホテルであるということを恥ずかしながら帰国してから知った。ホテル・ルワンダがあるものとばかり思っていた。キガリ・ホテルはあるがルワンダ・ホテルはない。ミル・コリンズ・ホテルは市の中心部にある。事前の準備が不十分だと、重要な情報を見落とすといった失態はつきものだ。映画の舞台になったホテルに泊まったからどうこうといことではないが、ホテルでお茶の一杯も飲まなかったのはいささか残念である。キガリ市内には約十数軒(小さな宿をいれるともっと数は多い)のホテルがあり、欧米からの観光客で結構繁盛しているようだ。ノボテルの近くには中国資本の高級ホテルが建設中であった。今年の夏には開業の予定だ。
 参考までにノボテルにはベーカリーがある。フランス・パンを売っていたが、評判がよいのか、客が途切れることはなかった。チェックインをしているとき、レセプションの反対側にあるベーカリーを見ると、たまたま二人の日本人の中年女性がパンを買い出しにきていたのをみかけた。いかにもNGO関係者という雰囲気だった。私も翌日エクレアを買ったが、悪くはなかった。
 パンに限らず、ホテルの料理のレベルは予想以上に高い。ルワンダはベルギーの植民地だったことからフランスの文化に色濃くそまっている。料理もフランス系で、「虐殺」が代名詞となったアフリカの内陸国でまさかこれほどの料理が食せるとはおもいもかけなかった。果物もスイカ、パイナップル、カンタルーペ・メロンがうまかった。この3種類の果物はバナナ、スターフルーツ、イチゴとあわせて、アフリカの果物の定番のようでケニア、ウガンダのホテルでも出てきた。
 ちなみに一般の人が食べるようなレストランで食事をすることは極力避けた。病気で動けなくなるのを恐れたからだ。一回だけ、市内のデリ(マクドナルドとケンタッキー・フライドチキンをあわせたような店)でビーフ・ハンバーガーを食べた。ビーフということだったが、香辛料がきつくてビーフの味などしなかった。肉は硬くてなかなか喉をとおらない。はたして何の肉だったろうか、いまだに疑っている。幸いなことに体はなんともなかった。
 ノボテルの客は欧米系が半分、地元と思われるアフリカ系の人が半分くらいか。インド系と思しき人も何人かいた。アジア系は私ひとりであった。何の目的でルワンダに来ているのかは明確にはわからない。NGO関係者か政府関係者とわかる人たちが何人かいた。そう断言できるのは、国連、NGO関係者の専用車両と化している白のトヨタ・ランドクルーザーに乗り込むのをみたからだ。車体には青字でUNと記されていた。アフガニスタン、カンボジア、ケニア、ウガンダそしてルワンダ全ての国で、国連やNGOなどの援助関係者は必ずといってよいほど、アンテナを高く突き出した白のトヨタ・ランドクルーザーを乗り回している。ランクルが最適の車輛なのだろうが、車を持ててももせいぜいが日本の中古車という地元の一般庶民から見れば、ランクルを疾駆させる国連、援助関係者は特権階級で、ランクルもまた準軍用車にしか見えない。
 援助関係者の他には明らかに観光目的の家族連れが何組かいた。小さな子どもがホテルのプールで遊んだり、欧米人にありがちな分厚いハードカバーの本をプールサイドに持ち込んで読書をしたり優雅な休暇をすごす人たちが何人もいた。ケニアやウガンダほどには有名ではないがルワンダは自然観光の穴場なのかもしれない。キガリ市内には旅行社も結構あり、ゴリラやチンパジー見物を目玉にした観光旅行を提供している。快適な気候や豊かな自然を考えるとルワンダは観光地としてこれから発展していくのではないか。日本人がタイやベトナムなどに観光旅行に行くように、欧米の人々はルワンダやウガンダ、ブルンジなどへ観光旅行に来ているのではないか。ウガンダのカンパラ空港で乗客同士の話しを聞くとはなしにきいていると、イギリスから来た中年女性は一ヶ月かけてビクトリア湖や周辺諸国を周遊したという。ちなみにベルギーからキガリまで週に三便直行便がでている。それほどまでにルワンダはヨーロッパに近い。日本からの距離を厭わないのなら、まだ自然が好きなカップルなら、ルワンダはハワイに匹敵する、あるいはそれ以上に新婚旅行に相応しい観光地だ(続く)。

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キガリ市内へ

 天井が高く利用客数の割には大きな空港ビルを出ると、外は気持ちのよいそよ風が吹いていた。カリフォルニアかハワイに来たかと思うほどに心地よい気候だ。気温は20度前後か。赤道直下の熱帯雨林という地図から想像する気候とは全く異なる。正確な高度はわからないが、キガリは比較的高地(ルワンダ全土が海抜1000メートルを越える高地の国だ)にあり、高度が高いせいで赤道直下でも比較的温暖な気候となっているのだろう。ただ同じ高地にであっても半乾燥地帯のナイロビよりも熱帯雨林気候のルワンダの空気の方が朝晩は若干湿った感じがする。
 ルワンダには3泊4日の滞在であったが、総じて気候はカリフォルニアによく似ている。カリフォルニア同様に雨期と乾季がある。滞在中は乾季の終りで、一度も雨にはあわなかった。朝、晩は涼しく、丘の麓には山霧が立ち込め、水墨画のような情景をみせる。しかし、朝日が照り始めると霧はあっと言う間に晴れ、まぶしい熱帯の太陽が照りつける。紫外線が強いのかすぐに日焼けする。その分、花や緑はすこぶる鮮やかで、空の青に映え輝いている。ホテルの庭には孔雀ほどの大きさの色彩豊かな鳥が遊び、木々の枝にはハタオドリが数多く遊んでいる。テレビではみたことがあるが、このハタオリドリは草や木の枝を使って徳利のような形の巣をつくる。たまたま地上に落ちた巣を見ると、ハタオリドリの名に恥じない精巧に巣を織り上げていた。温暖な気候と緑の大自然に恵まれ、ゴリラやチンパンジーなど多数の動物が生息するルワンダは、一見するとまるで桃源郷のような世界だ。
 この国で大虐殺が起きたことがどうしても信じられない。昨年訪れたカンボジアでも同じ印象を抱いた。ルワンダもカンボジアも本来は豊かな農業国である。いずれの国も貧困にあえでいたわけではない。イデオロギーによる洗脳か、社会システムの崩壊か、集団ヒステリーか、虐殺は単に貧困、飢餓などでおこるわけではないようだ。
 空港ビルを出た。外には大勢のタクシーが待ち構え、客引きが多数いると思っていた。しかし、タクシーらしい車が見当たらず、そもそも駐車している車の数自体が少なく、少々あわてた。ホテルまでの足がどうなっているのか全く事前にはわかっていなかった。ナイロビのように客待ちのタクシーで空港が溢れかえっている情景を想像していたら、おおいにあてがはずれた。
 あたりを見回すと「タクシー」と書かれた標識があった。近くにいる人にタクシーはどこかときくと、これがそうだ、と指さしたのは隣にある普通の乗用車だった。タクシーの表示もない普通の車がタクシーだという。ともかくも値段の交渉をして、5000ルワンダ・フラン(約1000円)でノボテルまで行くことになった。妥当な値段かどうかその時は判断がつかなかった。その後何度もタクシーを利用しているうちに法外な値段でないことがわかった。というよりも、むしろルワンダのタクシーはもちろん他のバイクを使った簡便なバイク・タクシー(正確になんというのか確認していない)も含め、真っ当な値段をつけている。国民性なのか、政府の規制が厳しいのか、比較的安心してタクシーを利用できた。
 ちなみにタクシー料金は、メーターがないので乗る前に値段を交渉するが、5000か7000ルワンダ・フランでキガリ市内のたいていのところに行ける。タクシーよりももっと安くて楽しい乗り物がバイク・タクシーだ。バイク(50ccのカブかせいぜい100cc程度のオートバイ)の荷台に客を乗せる手軽な乗り物だ。同じバイク・タクシーはウガンダにもあった。ウガンダはオートバイだけでなく自転車の荷台に客を乗せる自転車タクシーまであった。ウガンダでは客はヘルメットなどかぶらないが、ルワンダでは運転手も客もヘルメット着用だ。女性も含め客は全員ヘルメットをかぶっていた。
 ちなみにケニア、ウガンダに比べ、ルワンダでは比較的交通規則はよく守られいている。昨年行ったカブールでは交通信号などあってなきがごとしであった。そもそも停電で交通信号そのものが役にたっていない。キガリ市内では停電などなく、社会インフラはカブールより遥かに整っている。人口が少なく(約920万人)、首都キガリでも車の数が少ないために、交通ルールが比較的よく守られているのかもしれない。それだけでなく、思い過ごしかもしれないが、国全体が静けさに覆われ、虐殺の喪がいまだにあけないという印象を強く持った。
 さて、ヘルメットは私も当然かぶった。頭が大きくて、なかなかヘルメットがかぶれなかったが、何とかかぶって荷台にまたがった。はじめて乗ったときは、カーブを曲がるときなどいささかこわかったが、慣れるとこれほど快適な乗り物はない。心地よい風を感じながら、丘を昇り降りする感覚はこれまでにない快感だった。乗り心地のよさにつられて、キガリでは専らバイク・タクシーを足代わりに使った。料金も通常のタクシーの5分の1程度で、1000ルワンダ・フラン(約200円)もあれば、たいていのところには行けた。というほどに首都キガリは小さな街で、一時間も歩けば、市内の主だったところは全て見て回れる。
 話しは前後するが、空港からノボテルまでは15分程度だった。ただしノボテルは市の中心部から車で10分程度離れた空港よりの地区にあった。道路を挟んで、前にはEUの代表部とイギリスの大使館、少し離れた場所には、中心地から最近引っ越してきたばかりの米国大使館がある。米国大使館はまるで要塞のような威容を誇っている。元あった場所には領事部だけが残っている。その領事部も厳重に警備され、建物の回りの道路は車が通れないよう封鎖されている。
 空港から市内までの道路は最近建設されたばかりのようで片側二車線の立派な道路だった。中央分離帯と両側には植木や花が植えられ、道路掃除の人たちが一生懸命道路を掃いていた。想像していたアフリカとは思えない街の美しさだった。道路はガタガタで、ほこりが舞い、ゴミが散乱していたナイロビとは比較にならないくらい清掃が行き届いている。
 首都だけ道路整備が行われているのではない。地方に通ずる幹線道路は全て本格的な舗装道路だった。訪問した3ヶ国の中で道路が最も充実していたのはルワンダであった。道路建設の援助は主にEUが行ったようで、EUが支援したことを記した看板を地方に行くときに何度かみた。援助は虐殺を放置したことへの悔悟からなのか(続く)。

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いざルワンダへ

 翌朝(2月28日)不安と興奮を抱えながら、いざルワンダに向け、出発。
0930分、定刻通りにケニア航空機はキガリに向けナイロビを離陸した。ルワンダの首都キガリまでは1時間半たらずの飛行だ。機内はほぼ満席。100人程度の乗客か。現地アフリカ系以外の乗客は私と中国人思しきアジア系の二人のみ。
 ナイロビを飛び立つと、まず眼下に広がるのはサバンナの広大な平原だ。ナイロビは郊外かすぐにサバンナにつらなっている。キガリはナイロビのほぼ真西に当たる。セレゲンティ国立公園の北を通過してビクトリア湖を越え、タンザニア上空をへてルワンダに入る。飛行機は東西の大地溝帯(グレート・リフト)に囲まれた地域を横断する。
 ビクトリア湖の東と西では眼下の様相が一変する。東のケニア側は半乾燥地帯のサバンナで、広い草原に点々と灌木が生え、上空からは薄茶色にかすんで見える。一方ビクトリア湖西岸は目に鮮やかな緑で一面覆われている。ほぼ赤道に近いアフリカがこれほど緑に覆われているとは想像もしなかった。まるで日本の上空を飛行しているかのような錯覚に陥ったほどだ。この地域は、ビクトリア湖の西から西アフリカの海岸地帯にまで帯状に広がる熱帯雨林地域だ。緑に覆われた起伏に富む丘の連なりは、映像で見るアマゾンのような平板な熱帯雨林地域とは全く異なり、まさに日本の山並みを連想させる。
 ビクトリア湖をすぎ、タンザニア北部上空を通貨すると、飛行機は次第に高度を下げ始める。ルワンダ上空に入ると「千の丘の国」と呼ばれるように多数の丘が連なり、丘の麓から頂上にまで小さな家(小屋)が点在しているのが肉眼でもはっきりみてとれる。家のまわりは手入れされたバナナ畑が整然と並んでいる。飛行機はさらに高度を下げキガリ上空にさしかかると、丘が全体が住宅で埋めつくされた南サンフランシスコの様子にそっくりな町並みがあらわれた。
 飛行機はいよいよ着陸態勢に入り、バナナ畑の真ん中にでも着陸するかと思うほど緑の絨毯の上をなめるように飛び、やがて丘の上を平に切り拓いた飛行場に着陸した。飛行機の窓から見える空港の情景は日本の地方空港にそっくりだ。私が乗った旅客機以外、他には旅客機は一機もない。軍用と思しきヘリコプターが滑走路の端にある格納庫付近に2~3機駐機してあるだけだ。虐殺、紛争地という印象が強かったため、昨年訪れたカブール空港のような荒れ果てた空港を想像していた。しかし、実際には日本のきれいな地方空港と変わりはなかった。恐らく空港全体が新たに建設されたか改修されたのだろう。
 空港ビルも新築だった。ビルの中には空港職員もあまりいず、乗客はわれわれだけで、空港は閑散としていた。ルワンダの第一印象は、静寂だ。とにかく静かだ。ナイロビ空港にあったような熱気や喧騒はどこにもない。陽気なアフリカ人という、ステレオタイプ的なアフリカ人像はルワンダでは全く通用しない。入国管理官も愛想笑いするわけでもなく、まるで日本の入国審査官のように淡々と業務をこなしていた(続く)。

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April 09, 2008

ルワンダ紀行(まずはケニアへ)

まずはケニアへ
 エミレーツ航空は大阪出発である。JALで夜の8時に羽田を出発し、関西空港でエミレーツに乗り換えて、深夜に出発した。エコノミーでも座席が比較的広く、何よりも座席の一が高くて、深く腰掛けると短足の私の足は床に届かないほどの高さだった。フットレストを使って何とか足を収めることができた。3月にはJAL、ANA、UA、エミレーツ、ケニア航空と五つの航空会社に乗ったが、エミレーツが一番きれいだった。たいしたことはないが、エコノミーでアメニティ・グッズをくれたのはエミレーツが初めてだ。
 ドバイで待つこと数時間、ナイロビ行きのエミレーツ航空に乗り換えて、数時間の飛行の後、ナイロビ空港に到着。暑いのかと思っていたら、飛行機から降りるとさわやかな風が吹いていた。ナイロビが高原にある都市であることをまずは風に感じた。
 航空機から歩いて空港に入った。空港はアメリカの小さな地方空港並みの規模だ。入国管理官に型通りに入国目的を訊かれ、観光と答え、何ら問題もなく通った。しかし、あとで、これがとんでもないまちがいだと気がついた。おかげで再度ビザの手数料を払うはめになった。
 入国審査にはCOMESA(東南部アフリカ共同市場)、EAC(東アフリカ共同体)の案内がでていた。不覚にも、これらが何を意味するのか、最初わからなかった。何らかの協定国の国民にはビザが免除されているのだろうとくらいしにしか思わなかった。無知は高くつく。
 到着ロビーに出ると、すぐに「空港公認」のタクシー案内所があった。羽田を出てほぼ一昼夜たっており一刻も早くホテルに行きたかった。「空港公認」信じて案内所に行った。案内所で1500ケニア・シリングを払うと、タクシー乗り場に案内され、タクシーに乗り込んだ。『地球の歩き方-東アフリカ』にみ特に目安となるようなタクシー料金について書いてなかったので、はたして高いのか安いのかよく分からなかった。
 結論からいうと、空港からはタクシー案内所を通してタクシーを雇うのが一番安全確実だ。空港案内所が手数料をとるので、値段はその分高くなる。タクシー運転手と直接交渉し値切れば1000から1100シリングでいくことができる。ただし、値段交渉をする手間、隙を考えると1500シリングは高くない。またタクシーの中で必ず運転手がどこかに行くのなら是非自分を呼んでくれと商売をはじめる。このとき交渉すれば、逆に都心から空港行きの料金を1100シリングまで下げることができる。
 都心までおよそ30分。空港近くは立派に舗装してあったが、道路の補修が行き届かないのが次第に悪路になり、車の揺れが激しくなる。また都心に近づくにつれて車の数が増え、中心部では大渋滞になった。渋滞の原因はマタツと呼ばれる乗合バスやタクシーだ。マタツのほとんどがトヨタかニッサンの中古のマイクロバスを使って、乗客をつめるだけつめて走っている。
 やがてナイロビの中心部にはいると、ウンル・パークとセントラル・パークの二つの大きな公園が左手に見えてきた。公園の上空には大きな鳥が舞い、木々には彼らの巣が数多くみられた。自然に溢れているような情景だが、実際には東京都心上空をカラスが舞っているのと同じような感覚だ。多数の車の騒音、道路に溢れんばかりに行き交う人々。排気ガス規制やCO2の削減などどこ吹く風のすさまじいまでの排気ガス。発展途上国ではおなじみに混乱と無秩序のカオスの状況だ。
 市の中心部にはいると、マタツが規制されて進入できないためにタクシーは比較的スムースに走り、やがてヒルトン・ホテルに到着した。
 驚いたことに、ヒルトン・ホテルの前の道路50メートルはゲートで封鎖されており、ホテルにはいる車は全てトランクを開け、車体の下を鏡で調べる爆弾検査を受けている。ホテルの玄関前に車をつけて、いよいよホテルに入ろうとすると、ここでも再びボディ・チェックを受けることになる。空港にある金属探知機をくぐり、ガードマンのボディ・チェックを受けてやっとレセプションで、現地時間夕方6時にチェックイン。ここまで日本をでてから、28時間。
 一息ついて、レストランでバイキング形式の夕食を摂る。夕食時だというのに、ほとんど客がいない。私を含めて、7~8人。その中に数人の中国語を話す若い女性グループがいた。観光目的とも思えない服装だ。ナイロビも含めて、行く先々でアジア系の人々をみかけたが、ほとんどが中国系だ。ナイロビでも、物売りがかけてくる言葉は「ニーハオ」である。いかに中国人がアフリカに進出しているかがよく分かる。
 ヒルトン・ホテルは危険地帯といわれるダウンタウンに接しており、ホテルの部屋からダウンタウンを見下ろすことができた。印象を一言でいえば、アメリカのハーレムのような黒人街だ。ストリート・ベンダーが所狭しと路上にジャンクを並べ、多くの人がせわしげに行き交う、喧騒の街だ。ヒルトン・ホテルが警備を強化しているのはダウンタウンに接しているからかもしれない。
(続く)

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April 07, 2008

ルワンダ、ケニア、ウガンダ紀行

オヤジ・パックパッカー、虐殺地、紛争地帯を歩く-その1-

 昨年のカンボジアのキリング・フィールド訪問に続いて、今年も思い立って、現代の虐殺の現場を確かめるためにルワンダを訪れた。虐殺の背景や政治、社会情勢等についての論評は稿をあらためてブログに掲載する。
 ここでは、明確な予定をたてないままに、ルワンダ、ウガンダ、ケニアをオヤジ・バック・パッカーとなって放浪した足跡を旅行記として残しておきたい。元祖「地球の歩き方」にも記載されていない「ルワンダの歩き方」は、同国に関心を持つ人に多少なりとも役にたつと思う。

 ルワンダ行きを決意したのは、年度内の仕事に目鼻がついた1月下旬だった。ルワンダ紛争や虐殺について長年講義しておきながら一度も現場をみていないことに内心忸怩たる思いがあり、その鬱積した思いが募ってルワンダ行きを決意した。もう一つの理由は還暦がそろそろ見え始めた年になって、どれだけ自由気ままな旅をする気力と体力が残っているかをためしたいこともあった。1973年の夏に「カプリシアス・ツァー」という団体旅行を一人で企画し、20人を引き連れて、ヨーロッパまで引率したことがあった。体力はともかく、当時の気力がどのくらい残っているのかをためしてみたかった。若いバックパッカーに負けないオヤジ・バックパッカーとして、虐殺以外ほとんど知られいていない未知の国ルワンダ、現在紛争の硝煙たなびくケニア、そして反政府勢力いまだに跋扈するウガンダに挑戦したかったのだ。
 
出発前-旅行の準備のドタバタ騒ぎ-

 行くと、決意してまず最初にしなければならないのは飛行機の手配だ。ケニアのナイロビまではエミレーツ航空、ドバイ経由で簡単に格安チケットがとれる。しかし、ナイロビからルワンダの首都キガリまでの格安チケットはなく、結局ナイロビからはケニア航空で往復数万円の普通運賃のチケットを東京で予約することになった。現地で手配した方が結果的によかったが。
 チケットの予約は簡単にできたのだが、旅行会社から発券する条件として、ナイロビおよびキガリのホテルを予約することを求められた。本当に行けるかどうかを危ぶんだのだろう。
 実際ケニアは昨年末(2007年12月)の大統領選挙をめぐって政治的混乱がおこり武力衝突がたえなかった。日本外務省はケニアの一部地域に対して渡航延期勧告を出していた。またルワンダについては、インターネットでもあまり正確な情報が載っておらず、国情がどのようになっているのかほとんど不明だった。外務省のホームページをみても、ルワンダについては通り一遍の情報しか乗せていない。またルワンダ大使館のホームページやルワンダ政府のホームページも個人のホームページ並のお粗末さであまり役には立たない。調べれば調べるほど情報の少なさに驚き、不安は募っていった。しかし、実際に現地に行くと、こうした不安が全くの杞憂であったことがわかった。
 ともかくもナイロビは『地球の歩き方』を参考に、安全を考えてナイロビ・ヒルトンを予約した。ルワンダはインターネットで検索すると、首都キガリにはいくつかのホテルがあることがわかった。映画のタイトルにある「ホテル・ルワンダ」はなかったが、意外なことに世界にチェーンを持つ「ノボテル」があったのでノボテルを予約した。他にもセリナ・ホテルがあったのにはびっくりした。カブールやナイロビにもあり、一泊300ドル以上はする最高級ホテルだ。ちなみにカブールのセリナ・ホテルは昨年自爆テロにあい、今は閑古鳥が鳴いているという。
 ホテルの予約がとれた事で、チケットは無事発券できた。ドバイ、ナイロビ経由で東京-キガリ往復は約26万円であった。
 航空券とホテルの手配の次にビザの取得が必要になった。このときほど都心に暮らしていることのありがたさを感じた事はない。ルワンダ、ケニア、そして時間が許せばウガンダにも行くつもりで、3ヶ国のビザを取る事にした。3ヶ国の大使館がいずれも、自宅から30分以内にあり、多いに時間の節約になった。
 ルワンダ大使館とケニア大使館はともに東横線自由が丘駅から徒歩かタクシーで行ける。ルワンダ大使館は住宅街にあり一般家屋と外見は変わらない。国旗が立っていなければ見落としてしまうような普通の家を大使館として使っている。初めて行ったときは、その国旗さえ見落としてしまった。近所の人に訊いてもわからなかった。たまたまとおりがかりの人に、あそこの家には外人さんがよく出入りしていますよといわれ、指さされた家に行くと、まさにそこがルワンダ大使館だった。
 普通の家のように、玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて20畳くらいのリビングのような部屋にはいると、中年の日本人女性が一人事務をとっていた。ビザの申請料6000円也を払ってパスポートを一旦預ける事になった。
 数日後ビザを受け取りに、自由が丘からタクシーでルワンダ大使館にいくのだが、運転手がルワンダ大使館の場所がわからず、カーナビで検索してもヒットせず、結局最寄りのテニスコートを目標に行く事になる。ところが私自身が生来の方向音痴で、前にきたところなのに大使館の場所がわからず、しばらく右往左往するはめになった。とにもかくにもようやく大使館にたどりつき、ビザを貼りつけたパスポートを受け取った。そして待たせておいたタクシーで今度はルワンダ大使館から数分の距離にあるケニア大使館にビザの申請に行った。
 国力の差なのか、ルワンダ大使館とは異なりケニア大使館は公邸も備えた大使館らしい大使館であった。多くの人がビザ申請に来るらしく、ビザ申請専用の窓口があった。ここでも6000円也を払ってパスポートを一時預けた。二日後にビザを受け取り、その足で代官山にあるウガンダ大使館にビザ申請に行く。
 地図では簡単そうなのだが、ルワンダ大使館同様にウガンダ大使館も一般家屋を利用しているために、なかなか見つけられず、ここでも多いに道に迷った。なんとか見つけ出したものの、日本人の女性係員が電話にかかりっきりで待てど暮らせど応対に出る様子がない。しびれを切らして、たまたま二階からおりてきた日本人女性をつかまえて、ビザ申請をしたいというと、やっと事務にとりついでくれた。その日の内に発行するというから、また来るのも面倒と思い、大きなリビング・ルームのような部屋で待つ事にする。
 これがまちがいだった。ビザを申請しにきたのはその時には私しかおらず、どう考えても、そんなに時間はかからないだろうと思ったのだ。しかし、待つ事およそ2時間。ようやくビザを手に入れたときにはすでに夕方の5時だった。申請料は6000円。
 結論からいえば、3ヶ国とも入国時に空港でビザを申請した方が手っとり早い。しかも50ドルと安い。6000円というのは円安時のレート、1ドル120円で換算しているからだろう。
 飛行機のチケット、ビザに次いで必要なのは、予防接種だ。30年前にヨーロッパへ行く途中にエシプトに立ち寄る事になり、そのときに黄熱病の予防注射をしたことがあった。当時は有楽町の交通会館に予防注射専門の診療所があり、パスポート申請のついでに予防接種できたのだが、今はお台場にある東京検疫所まででかけなければならない。
 黄熱病の予防接種は火曜日の午後、しかも事前予約制で人数制限があった。最初希望した日はすでに満員で、一週間後に延ばしたのが、予防注射が有効になるのはルワンダ入国後ということになり、入国拒否になるのではないかと、いささか心配した。これもまた杞憂であった。イエローカードの提出を求めた国は一ヶ国もなかった。
 火曜日の午後、指定された時間に行くと、そこには数十人の予約者が集まっていた。アフリカや中南米に行く人々が結構に多いのには驚いた。順番を待っている間に掲示してあるポスターをみると、ルワンダ、ケニアは黄熱病、マラリア、デング熱、エイズなど伝染病の注意書きがずらりと列記してあった。ウガンダは、それらの伝染病に加えて、特別大きな注意書きがあり、最近エボラ出血熱が発生したとの掲示があるではないか。まさに紛争と伝染病の国に行くのだ、という覚悟を迫られた。
 かかりつけの医者にアフリカに行くというと、親切にも解熱剤、胃腸薬、抗生物質などさまざまな薬を処方してくれた。またマラリアを避けるために蚊にさされないよう、携帯の電気蚊とり器を探していくつかの電気屋や薬屋をまわった。近所のマツキヨでなんとか見つけ出した。
 さて、今から考えるとこうした準備や、伝染病、治安への不安など、全くの杞憂にすぎなかった。国際政治を専門にし、これまで一般の人よりは多くの外国を旅行し、アフリカについても多少の知識をもっていたつもりであったが、アフリカに対する認識かいかに誤っていたか、浅かったか、今回つくづく思い知らされた。恥じ入るばかりである。
 稿をあらためて書くが、一般の人々どころか専門家といわれる人々も含めて日本人のアフリカへのイメージは根底で間違っているのではないか。アフリカの多くの人々が貧困にあえぎ、病気に悩まされ、紛争の悲劇に嘆き悲しんでいるというイメージはアフリカの一面でしかないという当たり前のことを我々は忘れがちである。マスコミのせいもあるのかもしれないが、アフリカを援助対象国としてしかみない、言い換えるなら先進国の傲慢さがアフリカのあるがままの姿を曇らせているのではないか。(続く)

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April 05, 2008

新著紹介

 ここしばらく、ブログにアップしてこなかったのは、ひたすら私の怠惰と多忙の故である。正確には年度末の学務の多忙とルワンダ虐殺紀行、アメリカ学会出張の故である。ルワンダについては改めてブログで掲載する。
 もとより、あまりアクセスされるブログでもないから、アップがあろうがなかろうが関係ないようなものだが、一応公共空間に私的意見を一度でもさらした以上、継続する義務はあるだろう。
 というわけで、久しぶりにブログを再開する。再開する第一弾が拙著の紹介というのも気が引けるが、なるべく多くの読者に手にとって、できればご笑覧いただきたく、汗顔のいたりではあるが、ここに概要を記す次第である。
 まずは1月末に芙蓉書房出版から出版した『ストラテジー選書1、兵器の歴史』である。150頁ほどのリブレットで、初学者にも読みやすいように図版、写真も多数掲載し、執筆、編集してある。本書では、「兵器を身体の模倣と捉え、兵器がどのように身体機能を外延化し、拡張してきたか、あるいは身体機能を外部化し道具、機械、装置に置換させたか」を明らかにしている。身体の模倣に加え、もう一つの分析枠組みとしてトフラーの「波」概念を用いている。すなわちトフラーの農業、工業、情報の三時代の区分にあわせて兵器は道具、機械、装置へと発展してきたのである。そして現在は「身体の兵器化」の歴史から一転して「兵器の身体化」の歴史が始まったことを考察している。
 続いてもう一冊は、春風社から3月末に出版した『戦争の読み方-グローバル・テロと帝国の時代に』である。オビの惹句を引用する。「9.11は何をもたらし、何を告げたのか?ネグリとハート、カルドーらの議論を整理し、変貌する紛争の系譜をたどる。そのとき明らかになるポスト近代の世界システムとは?衰退する国民国家体制に代わる「人間の安全保障」の可能性をさぐる」。「本書が提起した問題のすべては、じつはホッブズが国家を創造する際に抱えた問題とおなじである。つまり、暴力をいかに管理するか、である。ホッブズは国家をつくって暴力を管理した。しかし、その国家が暴力を管理できないとすると、国家に代わって暴力を管理する主体は何になるのか」。
 当初は学術論文として書いていたが、有能な若い編集者の手でより読みやすく編集が施され、一般の読者にも読みやすい文体、体裁となった。とはいえ内容的に当初の学術論文の水準を落とすものではなく、間違いなく政治学の先端分野に挑戦していると自負している。
 佐伯啓思が『諸君!』5月号で「アメリカ文明の落日と新たなる『世界史の哲学』の構築」と題して思想・哲学・世界観の不在の現状を憂いているが、彼と全く同様の問題意識をもって執筆したのが拙著である。佐伯はニーチェを西田哲学で乗り越えようとしている。一方私はニーチェの源流であり近代思想の淵源であるホッブズを東洋思想で乗りこえようと目論んでいる。東洋思想が西田哲学となるのか、儒教となるのか、仏教となるのか、あるいは他の思想となるのか全くわからない。いずれにせよホッブズの自然状態仮説を粉砕する思想・哲学を模索していきたい。
 乞う、ご期待。あわせて両拙著のご講読なにとぞよろしく。

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