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February 26, 2009

イスラエルのゲーティッド国家化

 イスラエルはまさに治安国家になってしまった。いたるところで検問や尋問が行われている。空港内の到着ロビーでビデオ・カメラで撮影していたら、警備員が飛んできて、撮影を止めろと言う。家族写真で記念撮影なら良いが、空港だけを撮影するのは禁止だという。すぐに撮影を止めたが、警備員の上司までがやってきて、尋問された。入国の目的、なぜ入国スタンプを押してないのか、何日間滞在するのか、知り合いはいるのかなどなど、微にいり細にいり訊かれた。
 またホテルをはじめショッピング・センター、バス・センター、公共機関等の入り口では必ずボディー・チェックや荷物検査があった。警備員は必ず拳銃か自動小銃を携帯しており、いざという時に備えていた。また移動する兵士もほぼ全員が自動小銃を携行している。弾倉には実弾が装填してあり、いつでも発射できるようにしている。
 今回驚いたのは嘆きの壁への通路が塞がれ、検問所があったことだ。記憶違いでなければ、9年前には無かったように思う。イスラエルは重要な施設はとにかく検問を行い徹底して安全を図ろうとしている。その心理はわからないではないが、ここまで徹底すると異様としか思えない。
 テロリストが入り込まないように、ヨルダン川西岸やガザには高い塀をめぐらす一方、イスラエル国内でもいたるところで24時間検問で目を光らせていなければ暮らしていけない。これはどう考えても異常だ。はじめてイスラエルを訪れた23年前、そして前回の9年前と比較しても、治安への気配りは異常なほどに高まっている。こんなことを続けてはたしてイスラエルは国家として存続できるのだろうか。治安の維持や国防にこれほどまでのエネルギーを傾注しては国力も衰退するのではないか。
 イスラエルに比較してカイロの変わらなさにも驚いた。1973年、1985年そして今回と、都合3回カイロを訪れた。その印象は3回ともまったく変わらない。とにかく人が多く、町中にごみが散乱し、道路野舗装はいたるところに傷みがあり、建物は砂埃ですすけている。
 ガイドブックには30年前と変わらずホテルの水周りが悪いこと、観光地でのボッタクリに注意するように書いてある。ひとびとが信号をまったく無視するのも30年前と変わらない。地下鉄もあるがエスカレーターは壊れたままだ。修理をする余裕が無いのか、技術が無いのか。1985年にはアメリカから贈られた新しいバスが市内を走っていた。しかし、乗用車も含めほとんど新車は見かけない。状況や印象はカブールにそっくりだ。巨大なカブールがカイロだ。時間が止まったように変化がない。変化があったのは新しくできた空港とピラミッドとスフィンクスをとりかこむ柵だけだ。

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February 25, 2009

パレスチナ西岸の現状

 パレスチナ西岸に行った。予想外の発展だった。初日はパレスチナ自治政府の首都であるラマッラーを訪れた。エルサレム旧市街のダマスカス門近くにあるミニバス(シェルート)・ステーションから直行バスが出ている。30分ほどでラマッラーに到着した。
 ラマッラーの中心街は、とにかくすごい人込みと熱気であった。昔ながらの派手な真っ赤な衣裳をまとった水売りもいれば、通りでは数多くの露天商がおもちゃ、パン、お菓子などまざまな商品をを売っていた。カイロやエルサレムの他のアラブ人街と全く変わらないアラブの町がそこにはあった。
 ラマッラーで驚いたのは、新車の多いことだった。特に黄色のミニバスに新車が多かった。また車もベンツ、トヨタなどの新車が少なくともカイロよりは目についた。この理由は、イスラエルが分離壁をつくったたためにジェニン、ナブルスなどとの交通が不便となり、ラマッラーに会社や企業が移ってきたからといわれている。そのためにジェニンやナブルスは活気が失われているという。また恐らくはガザとは対照的にパレスチナの首都であるラマッラーには外国からの援助が途切れることなく続いているからであろう。イスラエルと共存すれば反映が約束される、との宣伝に使われているのかもしれない。
 帰りもミニバスを使った。乗客は私を除いて全てパレスチナ人である。検問所には検問を待つミニバスや自家用車の長い列ができていた。その横を国連車輛がすり抜けて行った。カンボジアでもアフガニスタンでも、ウガンダ、ルワンダ、ケニアそしてパレスチナのどこに行っても国連の車は新車で、その多くがトヨタのランドクルーザーだ。地元の人から見れば、援助をする頼もしい組織なのだろう。しかし、一見、国連は特権階級だ。
 15分か20分ほど待たされて検問所を通り抜けたと思ったら、突然イスラエルの若い女性兵士がミニバスに乗り込んで一人一人の身分証明書をチェックし始めた。私はパスポートを提出した。入国の際に入国スタンプを押さないように頼んだたために、私のパスポートには入国記録がない。その点を根掘り葉掘り訊かれた。まことにぞんざいで横柄な口のきき方に思わずムッとした。こんなことが毎日続けば、パレスチナ人がイスラエルに反感を募らせるのもよくわかる。乗客の何人かがバスから降ろされ、どこかに連れて行かれた。バスは検問所の近くでしばらく待っていた。10分ほど待って降ろされた乗客をおいたままバスはエルサレムに向かって出発した。
 検問所はヨーロッパの国境検問所や米墨国境検問所などと同じく完全に国境検問所のような大がかりな施設である。2000年に来たときには、監視塔と鉄条網があっただけであった。しかし、今は鉄条網に代わって高い塀がそびえ立ち、監視塔に代わって監視カメラで厳重に警備された建物になっていた。9年前も警備は厳しかったとはいえ、単に不審者の監視程度であった。しかし、今は完全に国境警備に代わっている。一人一人を厳しくチェックしている。イスラエル政府が二国家体制を着々と既成事実化していることがよく分かる。
 次の日にはヘブロンを訪れた。アラブ・バスステーションから大型バスでベツレヘムまで行き、そこからタクシーを雇ってヘブロンの街を通り、トルクミアの検問所からイスラエルに戻った。ベツヘレムへの道路にも検問所があったがパレスチナに入る際には何の検問もない。ベツレヘムの街はずれが終点であった。エルサレムからベツレヘムに続く道は整備され、8年前とは様変わりであった。ベツレヘムからヘブロンまでの道路も整備され、両側にはこぎれいな家並みが続いていた。
 はじめてイスラエルに来た1985年当時、ヨルダン川西岸をやはり車で走ったが、丘の上に塀で囲まれたユダヤ入植者の家があり、麓には粗末なパレスチナ人の家波が続いていたのを思い出した。車窓から見える限り、きれいな家並みが続いていた。西岸にはまだユダヤ人が多数居住しているが、はたして彼らの家なのだろうか。道路沿いのバス亭にはユダヤ人と思しき人がバスを待っている風景も見えた。タクシーの運転手に訊くと、全てパレスチナ人の家だという。もしそうだとしたらわれわれが思い描くパレスチナ難民とは全く異なる。実際、ラマッラーにしてもヘブロンにしても、カイロより人々の生活は豊かそうに見える。
 西岸に入るにはエルサレムの検問所しか開いていないというホテルでの情報をもとにエルサレム経由でヘブロンにやってきた。実際にはホテルのあるアシュケロンからトルクミアの検問所を通るのがヘブロンへの一番の近道だ。たとえ検問所が閉鎖されていたとしても、どのような検問所なのか確かめようとトルクミア検問所まで行くことにした。ヘブロンから20キロ程度の距離だったろうか。
 丘を下ったところにトルクミアの検問所があった。いってみて驚いた。閉鎖などされていなかった。ヘブロンから検問所に向かう道は一本しかない。途中で何台ものトラックにすれ違った。検問所があいているのではないかと思うようになった。実際に開いていた。そこにはエルサレムの検問所よりもはるかに大きな検問所があった。
 トラックが往来するのであろう。トラックが駐車できるよう大きなトラック・ヤードがあった。またパレスチナ側には検問所を往来するパレスチナ人目当てのタクシーや露天の食べ物屋まであった。数十人のパレスチナ人がパレスチナ側の検問所そばにたむろし客待ちをしていた。
 たまたまか、私がトルクミアに着いた時は夕方で、検問を受ける車はほとんどいなかった。アラブのタクシーはイスラエルに入れないので私はタクシーを降りて歩いてイスラエル側に入ることになった。歩いて検問所を通過する者など一人もいない。ましてや日本人である。200mくらい近づいたところで検問所のスピーカーがなにやら大きな声で叫んだ。思わず歩みを止めてしまった。銃をもった警備兵がこちらをにらんでいる。緊張の一瞬ではあった。
 警備兵の手招きの指示にしたがって検問所に近づき、なんとか検問所を通過した。イスラエル側にはタクシーもミニバスもなく、山の中の検問所で途方に暮れた。そのとき、全く運のよいことに西岸に帰るパレスチナ人を乗せたミニバスがやってきた。それに乗りキリヤット・ガットまで行き、バスを乗り継いでなんとかホテルに帰ることができた。ミニバスの運転手はロシアからの移民だとい。イスラエルのあちこちでロシア語の標識や案内板をみかけたが、ロシア東欧からの移住者が多いのだろう。
 西岸のラマッラー、ヘブロンは見た限りではカイロよりも豊かそうにみえた。特にヘブロンの街の雰囲気はヨルダンのアンマンに似ていてる。アンマンはカイロとは異なり街はきれいに清掃されゴミもあまり落ちていない。タクシーの運転手によれば清掃が徹底してるからだという。もともとヨルダン川西岸がヨルダン領だったことから、西岸はヨルダンの文化的影響を受けているのかもしれない。単なる印象でしかないが、1985年、2000年と比べて西岸は随分と発展したように思えた。

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February 20, 2009

パレスチナの現状

戦闘後のガザに入るべく、何の準備もせずに、2月4日にイスラエルに行った。現在、ガザ地域はほぼ完全に封鎖されており、検問所はイスラエル側のエレズとエジプト側のラファにそれぞれ一カ所ずつあるだけである。その他のガザに通ずる道路は一切封鎖されている。
 封鎖そのものはハマスがガザの支配権を把握した07年6月以来続いている。エレズとラファに続く道を走ったが、トラックが行き来する様子は全くなかった。150万人もの人口を抱えるガザが一体どのようにして物資を調達しているのか全くわからなかった。海上もイスラエル海軍が封鎖している。滞在中に人道支援物資を積載したレバノンの船がイスラエル海軍の検閲を受けたとのニュースがあった。海上封鎖も厳格に行われているようだ。国連の人道支援物資が入っているらしいが、そうした車輛をイスラエル、エシプトいずれでもみかけなかった。
 ガザへの入境は報道記者とNGO関係者に限られているようだ。報道記者は事前にイスラエル政府に取材申請し、身分証明書を発行してもらっている。検問所では証明書を提示するだけで簡単に入れる。一方、NGO関係者は境界を管理するイスラエルのCoordination and Liaison Administration to Gaza (CLA)から許可をもらってはじめて入境できる。イスラエルは基本的にNGO関係者であろうとも、できる限り入れたくないというのが本音なのだろう。とにかく許可がおりるまで時間がかかる。まずCLAに電話をしてもなかなか担当者が出てこない。また申請してから許可がおりるまで一週間以上かかる。
私もあるNGO団体のスタッフということで、やっとのことでつながった電話で指示されたファクスに書類を送り、許可申請をした。しかし、一週間たっても何の返事もない。やっと電話がつながった思うと、送ったはずの書類が届いていないという。送り直しても、やはり許可がおりるには一週間かかるとの返事であった。帰国の日にちが決まっていたために今回はガザ入境は見送らざるをえなかった。
 エジプト側の国境からガザに入ることも不可能であった。エジプトも記者のガザ入境は認めているようだが、やはり許可証がなければ入境は認めないようだ。ガザへの入境はエジプトからの出国になるのだから、出国を認めるのではないかと甘く考えたのが間違いであった。むしろイスラエル側よりも軍の警備は厳しく、近くの町のアリーシュから国境までの20キロの間に3回の検問を受け、さらに国境検問所には銃座に据えた機関銃や自動小銃で武装した兵士が多数配備されていた。係官に事情を話すと、国境は封鎖されているのですぐに引き返せと厳命された。カイロからバスではるばる6時間、タクシーを雇ってさらに20分かけてたどりついた国境だったが、滞在わずか数分で再びカイロに引き返すはめになった。
このラファの国境はエジプトと形式上パレスチナ自治政府が管理している。さらに国境管理を支援するためにEUがEUBAM(EU Border Assistance Mission)という部隊を派遣している。たまたま私が宿泊したイスラエルの国境のリゾート・タウン、アシュケロンのホテルを拠点にしていた。私が宿泊していた間、ホテルで数人のスタッフは見たがあまり活動している様子はなかった。ホテルの専用駐車場にはいつもかれらの車(トヨタのランドクルーザー)が駐車してあった。毎日どのような任務についてるかははっきりしなかった。
 最後にガザを一目みようと、ガザに一番近いイスラエルの国境沿いの町ネティボットまでバスとタクシーを乗り次いで行った。ガザの東側はイスラエル国境に近く、本来ならここにも検問所がある。しかし、現在は検問所に続く2キロ近く手前で道路が封鎖されていた。離れているとはいえ小高い丘から遠くにガザ市街が望見できた。ガザの大きさには少し驚いた。ビルが立ち並び、大都市といってもよい大きさだ。イスラエルはまさに大都会の人口密集地に攻撃をしかけたのだ。(続く)

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February 01, 2009

海自ソマリア派遣反対

 海上自衛隊がソマリア海域に派遣される。私は反対の立場をとる。その理由は二つ。
 第1は、憲法違反である。法律上の細かな解釈により憲法違反にはならないとの議論もある。しかし、何度も繰り返すが、憲法の条文は義務教育を終えた国民が理解できる内容が憲法の正しい理解である。その点から考えれば、自衛隊はそもそも憲法違反である。百歩譲って自衛のための戦力として自衛隊を認めたとしても、行動範囲は日本の領海に限定されるべきである。もし自衛隊を海外に派遣するなら、前提として憲法の改正は必須である。憲法も改正しないまま自衛隊の行動範囲を広げることは、実質的に憲法が無きに等しい状況をつくりだすことに他ならない。
 第2は、自衛隊の能力である。海上自衛隊は海賊のような武装集団を鎮圧する専門の部隊もなければ、訓練も戦術も交戦規定もない。たしかに10年前から特殊部隊を創設して海上ゲリラ戦への備えはしてきている。しかし、想定している敵は敵国の特殊部隊もしくはテロ組織である。金目当ての海賊とは異なる。現在の海上自衛隊の能力では適切な対応が難しい。過剰反応すれば、国際世論の批判を浴びる可能性がある。また過少反応すれば、自衛隊に犠牲者が出る。
 今回の派遣は、昔から議論されたシーレーン防衛の実践だ。冷戦時代はソ連から、対テロ戦争時代はテロ組織から、そして今や海賊から日本のシーレーンを防衛せよ、との主張だ。今回は国連決議もある。中国軍も韓国軍も派遣している。しかし、「遅れてならじ」とまなじり決して押っ取り刀であわてて派遣しても成果は期待できない。
 派遣を考えるなら、ここは王道を歩んで、まずは憲法改正の議論を喚起すべきであろう。その間、たとえ日本船が乗っ取られ、犠牲者が出たとしても、憲法9条を墨守する日本国民は、それを「平和の代償」として甘受すべきである。

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平和主義者の無邪気な偽善

 しばらくブログの更新が途絶えた。この間、平和学に関する教科書を執筆していた。今月、勁草書房より『入門・リアリズム平和学』を上梓することになった。ご笑覧いただければ幸い。
 同書を執筆している時に、強く感じたことがある。いわゆる平和主義者の「無邪気な偽善」である。日本の平和主義者は非暴力や軍事力を否定する。しかし、否定するあまり、平和思想の曲解、事実の隠蔽や誤認が多い。詳しくは拙著をお読みいただきたい。
 第1に、平和主義思想の曲解である。カントは軍事力を否定した非暴力主義者のようにみなされことが多いが、カントは武装民兵組織を肯定している。エラスムス、モア、サン・ピエールにしてもヨーロッパの思想家で完全に非暴力主義に立ち、あらゆる戦争に反対している思想家は皆無である。非暴力主義のキリスト教メノナイト派の創始者メノー・シーモンスの「良心的兵役拒否」も、戦争が前提になって「良心的兵役拒否」があり、彼自身も戦争そのものは否定しなかった。
 第2に、事実の隠蔽である。
 軍隊のない国家としてコスタリカの例がよく挙げられる。たしかにコスタリカにはいわゆる常設軍隊はない。だからといって国防を全く考えていないということではない。いざというときには軍隊の創設は禁止されていない。またいざという場合には武装して国連の集団安全保障体制や米州機構の集団安全保障体制に協力することを決めている。つまり決して非暴力、非武装ということではない。
 第3にコスタリカは軍隊はないが、準軍事組織である国境警備隊は保有している。軍と警察の同異についての誤認が多いのも平和主義者の特徴である。軍と警察の相違について、一般的には「戦力」は「警察力を越える実力」と定義される。その違いが生れるのは、目的、実体そして組織行動原理にあるとされる。
 まず目的である。軍隊の目的は国外からの脅威の排除、警察は国内の治安の維持である。次に実体の違いは、警察が国内治安の維持に必要な程度の実力であるのに、軍隊は警察以上の戦闘力を持っている。しかし、こうした見解の前提になっているのは、いずれもが主権国家の「旧い世界」であり、主権国家間の「旧い戦争」である。もはやこうした世界は崩壊し、「新しい戦争」の時代となりつつある。
 「新しい戦争」で軍隊の役割は現在のアフガニスタンをみてもわかるように、国内や国際社会の治安の維持である。実力面でも、各国を比較すれば軍隊以上の実力をもった警察は多い。逆もまたしかりでてある。警察や軍の実力は、脅威や危機の質、量によって決定される。
 最後の組織行動原理の違いとは、軍隊の行動原理が殺戮破壊にあり、警察の行動原理は人命財産の保護にあるとの指摘である(山内敏弘『平和憲法の理論』日本評論社、1992年)。これも、ある意味ではためにする、あるいは時代後れの議論である。「新しい戦争」の時代では、警察も軍も組織行動原理にそれほどの差はなくなった。どちらも「テロ組織」を「殺戮破壊」し「人命財産の保護」しなければならなくなったからである。アフガニスタンにおけるタリバンとの戦闘を見れば一目瞭然であろう。
 結論を言えば、日本の平和主義思想は、非暴力、非武装を主張したいがあまり、あまりに牽強付会、我田引水的な主張が多い。平和を主張するのに、「無邪気な偽善」に基づく議論のための議論では本当の平和はおとずれない。

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