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August 28, 2009

サンダカンから船に乗ってサンボアンガに着いた

 事前にネットで調べたところ、サンボアンガからサンダカンへのフェリーについては情報があった。しかし、逆にサンダカンからサンボアンガへの情報がなかった。サンボアンガからサンダカンへの船があるのだから間違いなく逆の航路もあるはずという思い込みでサンダカンを目指した。今から数百年前にイラスム教がボルネオから島伝いにフィリピンのミンダナオ島そして最後はルソン島まで伝わっていった。そのイスラム・ルートをどうしてもたどってみたかった。現在もイスラム教の流れがあるのかを実際に体感したかった。
 同じルートでマレーシアからフィリピンをめざす人もあると思うので、参考までに船旅の方法について記しておく。
 サンダカンからサンボアンガへの船は2009年8月時点ではフィリピンの船会社Aleson Shipping Linesが運航している。サンダカンからは火曜日と金曜日の出港。私が乗船したのは火曜日5時出港予定(実際は5時半出港)の船だった。
チケットはサンダカンのBandar Hsiong Gardenの一角にあるMaritime(089-212063)というチケット販売所で事前に購入する。外からは乗船券を販売しているとはとても思えない、うっかりすると見落としてしまいそうな間口一間ほどの小さな事務所だ。私は最も高いキャビンのチケットを290リンギで購入した。キャビンだから個室かと思ったら、6畳程度の広さしかなく、そこに上下二段ベッドが二つおいてある4人相部屋だった。幸い私一人だったからよかった。しかし、実際には出港してすぐにエアコンが故障して蒸し風呂のような暑さになった。それでもスチュワーデスがシーツを敷き、枕カバーをかけてくれたベッドでなんとか横になった。ベッドをよくみると小さなゴキブリがあちこちで動き回っている。南京虫よりはましだと覚悟を決めて寝た。しかし、蒸し暑さに夜中に何度も目が覚めた。キャビンといってもフィリピンの安宿ロッジ程度である。
教訓。一番良い部屋は、エアコンの効いた大部屋だ。やはり二段ベッドだが値段のせいかそんなに乗客も多くはなく、快適そうに見えた。値段は270リンギだと思う。一番やすいのはデッキだ。甲板に二段ベッドをぎっしりと並べ、夜風、海風に当たりながら床につくのだ。日常風景、庶民の生活を知りたければ、甲板を薦める。値段はそれほど安くはない。250リンギだ。フェリーはフィリピンやアフリカでしばしば沈没事故をおこすような古びた船である。
甲板は小さな子どもを連れた家族や、大きな荷物を抱えた商売人らしき人たちでほぼ満員だった。
船は三層に分かれ、キャビンとエアコンのある大部屋そして甲板ベッドが最上層、中層には甲板ベッドのみ、そして最下層はコンテナや車を積み込む貨物室である。私の乗った船はサンダカンで荷物をあまり積み込まなかったようでほぼ空だった。トップ・ヘビーで転覆するのではないかと恐れたが、ほぼ丸一昼夜の航海の間、海は内海のように穏やかで、船は全く揺れなかった。
 サンダカンの港は市街から少し離れたKaramunting港だ。市内からタクシーで30リンギ、約20分くらいのところにある。4時に行くように言われていたが、用心のため3時に港についた。港といってもコンテナ・ヤードの横に出入国管理事務所の建物があるだけで、人々は炎天下、外で出国手続きが始まるのを待っていた。何軒か露店が出ており、弁当や飲み物を売っている。また両替商が何人もいてペソ、リンギ、ドルの両替をしていた。船の売店ではペソしか扱わないので事前に両替が必要。
出国手続きが始まったのは5時近くになってから。出国事務所の入り口に突然人々が群がり始めたので、あわてて私も並んだ。今考えれば、全く無意味な行列だった。甲板ベッドを取る人は、早く乗船して最上のベッドを取る必要があるのかもしれない。ただし甲板ベッドにそれほど良い、悪いがあるとは思えなかった。
やがて事務所のドアが開き、係官三人が出国手続きを始めた。私は随分前に並んでいたが、出国までに半時間はかかったろうか、とにかく時間がかかる。やっと出国手続きがすむと、出口には船までの送りのバスが待っていた。無料だと思ったら、2リンギとられた。ほんの数百メートル走って船にたどりついた。ちなみに2リンギといえば、サンダカンの空港から市内までのバス料金と同じである。全くのぼったくりだ。
いよいよ乗船である。まずは乗船名簿の確認、そしてインフルエンザ検査である。簡易体温計で熱を計られ、異常なしということでやっと乗船を許された。乗り込んで半時間ほどして、船は港を離れた。
船内でのすごし方について少し触れておく。出港してしばらくすると陽が沈む。日本の船のように娯楽設備があるわけではない。トイレはトイレット・ペーパーを使わないイスラム式の水洗便所。キャビンにはシャワー室があったが、とても使える代物ではない。船員たちは船で生活しているのか、キャビンの一室はスチュワーデス四人の寝室になっていた。彼らは入出港の際に検疫の手伝いや入国審査の手伝いなどをしていた。
船内にはキャンティーンがある。しかし、売っているものは限られている。ご飯とオカズのゆで卵。ゆで卵をオカズにご飯に醤油らしきものをかけて夕食にしている乗客が多かった。食事は他にビーフンとカップ麺のみ。ビール、インスタント・コーヒー、ビスケットといった本当に簡単なものしか売っていない。事前に食料は買い込んでおいたほうがよい。
ビールは60円くらいで安い。ひたすら酒を飲んで寝るしかない。
5時頃には空が明るくなり、6時過ぎには夜が明けた。あとはひたすら海をみつめ、遠くの島影をながめるだけである。日なたに出れば、あっと言う間に日焼けだ。退屈した乗客の中には歌を歌い、踊りだすものもいる。子どもたちは甲板を駆け回り、女たちはおしゃべりに夢中になる。やがてどこからともなく大きな歓声が響きわたってきた。行ってみると、日本で言えばさしずめチンチロリンというところか、二枚のコインを使ってバクチが始まった。1ペソ、2ペソのコインから始まってやがて札が舞いだす。といっても、100ペソもいかない。少額だと思っていたが、貧しい人にとっては、一日の稼ぎにも匹敵する金額だ。結構な大金をはっていたのだ。
2時過ぎにサンボアンガの街並みが遠くに見え始めた。船内のキャンティーンでは入国にあたってパスポートのチェックが行われた。これで入国手続は終わりかと思っていたら、実際には船が接岸すると同時に数人の小銃を持った兵士を引き連れて三人の入国係官が乗船してきた。出口を兵士が封鎖する中、係官が入国手続を行った。接岸から実際に下船するまで小一時間かかった。
船が港に近づいたころ、2~3人の子どもが乗った船外機つきの小舟やおもちゃのような小舟が数隻船に近づいてきた。盛んに乗客に物乞いをしていた。そのうち乗客の一人がコインを海に放り投げると、子どもがすぐに海に潜ってコインを取るのである。あまりコインをなげる客はいなかった。中には食べかけのパンをほうりなげる客もいた。船から完全に乗客がいなくなるまで、ずっと小舟から乗客を見上げてコインをせがんでいた。サンボアンガの港だけでなく、バシラン島イサベラの港でも同じ光景を見た。水上生活をする子どもたちなのだろうか。3~4才と思しき女児までが本当に器用に小舟を操っていた。
最後に下船する乗客を待ち構えるように、トライシクルやジープニーの運転手が誘いをかけてくる。港から市内までトライシクルなら20ペソで十分だ。それを200ペソ吹っ掛ける運転手もいるので要注意。
イスラム・ルートを求めて船の旅をしたが、結論としてはあまりイスラムのニオイはしない。船内でお祈りでもあるのではないかと思ったが、メッカに向かって祈りを捧げる人をみかけることはなかった。女性で髪をベールで覆っている人を何人かみかけたものの、髭面の男はみなかった。乗客の中で一番髭面だったのは私だった。

(なお、写真とビデオはグーグルのブログで公開している。ニフティは写真とビデオのアップが非常に難しいので)

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August 20, 2009

非暴力平和隊は今こそフィリピンで割り込みを

 非暴力平和隊そして憲法9条の会のメンバーは今こそ日頃の主張や理念を実践するために、ただちにフィリピンのミンダナオ島イスラム地域、特にバシラン島に入って、政府軍とモロ民族解放戦線およびアブサヤフの暴力を非暴力で停止せよ。両者の間の停戦はこれまで何度も破られてきた。そして今回私がバシラン島へ入った8月17日にもバシラン島ティポティポで両者の戦闘が発生、政府軍兵士が一人犠牲になった。イスラム勢力側、市民側の犠牲は不明。また同日、バシラン島の戦闘状況を偵察していた政府軍ヘリコプターも何者かに銃撃され、従軍取材していたフィリピンのテレビクルーが負傷した。戦闘は明らかに激化している。
 フィリピンアロヨ政府は8月に入ってイスラム勢力の掃討作戦を開始した。両者の暴力のエスカレートを防ぎ、市民の巻き添えを防ぐために、いまこそ非暴力平和隊が両者の間に割り込み、その力量を発揮する時である。戦闘が激化した時に撤退し、市民を危険に曝したスリランカ内戦の徹を二度と踏んではならない。
 また憲法9条の会は、自衛隊の派兵反対を叫ぶばかりでなく、自ら護憲を実践する時が来たことを深く自覚すべきである。是非、井上ひさし氏そしてノーベル賞受賞者益川敏英氏らが先頭にたって、バシラン島に入り両者の間にはいって非暴力で紛争解決を訴え、憲法9条を実践してほしい。
 伊勢崎賢治氏が言うように、アジアの人々には日本に対する「美しい誤解」がある。すなわち日本は平和で戦争をしない国だということである。それは今のところ彼らにとって単なる伝聞にしかすぎない。いまこそ、フィリピンで憲法9条の精神を実践し、具体的な護憲運動を展開してほしい。
 非武装平和隊・日本は国際組織から独立して、憲法9条隊を結成し、独自の活動を展開すべき時が来た。国際組織に入っている限り、たとえNGOといえども各国の国益に左右されがちである。財政面での心配はない。日頃から護憲を主張している労働組合の連合が資金援助や人員協力を拒否するはずがない。また民社党も今こそその護憲を実践するために連合に積極的に働きかけるだろう。連合に加入していた元労働者の退職者で憲法9条隊を編成し、紛争地で非暴力による紛争解決を実践するのである。連合の組合員も憲法9条をまもるために年間1万円を拠出するのだ。それだけで600万人もの組合員を抱える連合からは600億もの資金が集まる。護憲のために年間一万円は高くないだろう。
 非暴力も護憲も口先だけではなく実践してはじめてその意義がある。暴力のないところでいくら非暴力といっても全く無意味だ。非暴力平和隊には暴力の蔓延する地域でガンジーの精神にのっとって非暴力で紛争を解決してほしい。それこそが憲法9条の具現化であり、また真の意味での護憲である。冷房の効いている部屋でいくら論議してもバシラン州の人々の苦難は救えない。

(追伸)『目黒短信』はグーグルでも公開。ニフティは写真や動画の制限が厳しく、写真を添付する記事はグーグルのみに掲載中。なおそれ以外はニフティとグーグルの目黒短信は全くおなじ内容。

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August 10, 2009

サンダカンにて

 サンダカンは小さな町だ。市の中心部を歩いても30分であらかたの場所を見て回ることができる。下水道が整備されていないのか、いたるところで下水の匂いがする。とにかく湿気が高く、暑い。欧米系の観光客が多い。泊まっているリゾート・ホテルもひと組の日本人家族を除けば全員が欧米系だ。海やジャングル観光なのだろう。
 イスラム教のはずなのに、市の中心をおろかどこにもモスクを見かけなかった。天主教と書かれたキリスト教の教会が目につくぐらいだ。スカーフをしている女性よりも、していない人のほうが多い印象だ。イスラムつながりでフィリッピンのミンダナオとの関係が深いと思っていたら、全く予想外だ。フィリッピン行きの船は週2便とすくなく、飛行機の直行便は出ていない。釜山と下関、福岡のような頻繁な行き来があると思っていたが、予想外に往来が少ない。アジアのイスラム勢力が跳梁跋扈するようなイメージだが、あまりイスラムのにおいがしない。
 さっきやっとサンボアンガ行きの船のチケットがとれた。チケット売り場に日本人のバックパッカーの若い男がいた。小さな町にしてはホテルが多いが、バックパッカーの拠点のようだ。
 1974年に山崎朋子がサンダカンを訪れているが、その時彼女が宿泊したホテルが、いま私が泊まっているサバ・ホテルのようだ。町は当時とは様変わりし、そしてホテルも一変したようだ。一世紀近く前にここに多くの日本人が暮らしていたとは思えないほど今は中国系の人々が暮らしている。
 さて明日は夕方にサンダカンをたって明後日んの昼頃にサンボアンガに到着の予定だ。このルートがイスラム街道かどうか調べたい。

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August 08, 2009

8月ジャーナリズムと憲法9条

また8月ジャーナリズムの季節がやってきた。
 8月6日のNHK番組「核は大地に刻まれていた~“死の灰” 消えぬ脅威」では、カザフスタンで行われた第1回目の核実験の死の灰の影響を土壌分析から検証しようとする日本人科学者の活動を追っていた。カザフスタンではいまだに深刻な影響が出ているとのことだ。同様に日本でも、死の灰をかぶった地域では、被爆被害を続いているという。素人考えながら、もしいまなお深刻な被害が出ているとするなら、爆心地にある広島や長崎で暮らすことは危険なのではないか。実際、爆心地に都市を再建した国は日本以外にない。何十発も核実験をした実験地と違い、一発の核兵器の影響はそれほど深刻な影響を及ぼさないということなのか。それとも、危険を伏せたまま、都市を再建したということなのだろうか。NHKのドキュメンタリーを見る限り、広島、長崎に暮らすことは、今なお危険という印象を受けたのだが。是非、専門家にきいてみたい。
 8月ジャーナリズムというのは、8月に限って、戦争特集を組んで、前の戦争のことについて反省するジャーナリズムのことである。日頃戦争のことなどあまり取り上げなくなったメディアが反省を込めて少なくとも8月だけでも戦争について反省しようということなのだろう。
 取り上げられる戦争は、きまって第2次世界大戦と核問題である。戦争反対、核兵器廃絶という視点はどこのメディアも変わらない。戦争反対といいながら、NHKは日露戦争を美化する『坂の上の雲』を製作中だし、またここ何十年にわたって毎週日曜日には時代劇で合戦の物語を放映している。源平の合戦や長篠の戦い、薩英戦争、鳥羽伏見の戦いなどは戦争ではないのか。日露戦争は時代劇になりつつあるのか。そうすると、いずれ太平洋戦争も時代劇になるのだろうか。取り上げ方、切り口があまりに紋切り方になっているからこそ、8月ジャーナリズムと揶揄されるのだろう。反戦の視点さえ取り入れれば、最低限良心的な番組といわれ、視聴者の反発も来ず、そしてジャーナリストとしての良心を癒すことができる番組となるのだろう。
 少なくとも9.11以来、戦争は第2次世界大戦のような総力戦や国家間戦争とは異なり、全く新しい時代の社会武力紛争の時代に入ったというのに、8月ジャーナリズムにはその視点が全く欠けている。今日8月8日のフジテレビでノーベル賞物理学者の益川敏英氏が戦争と憲法9条について語っていた。その中であと200年後には戦争はなくなると語っていた。益川氏の言う「戦争」とはどういう戦争をいうのだろうか。
 もし第2次世界大戦のような国家総力戦をいうのなら、もはや「総力戦」は起こらない。国家総力戦では、国家が総力を挙げて、向上で兵器を生産しつつ戦場で兵器を消耗する大量生産大量破壊の戦争である。しかし、情報革命、軍事革命が進み時代は少量生産少量破壊の情報時代へと転換した現在、総力戦など起きようはずもない。益川氏のいうように200年も待たなくても、国家間戦争は、ごく一部の例外を除いて、もはや過去のものである。
 もし戦争が民族集団、宗教組織間などの間でおこる社会「武力紛争」という意味であれば、200年後も続いているだろう。なにせ、人類は有史以来、武力闘争を止めたことは無い。ただし、文明は、武力紛争を法という制度や国家という組織によって抑制する努力は続けてきた。その結果、主権国家間の武力紛争はようやく抑制できるようになった。しかし、社会武力紛争は未来永劫をつづくだろう。人類はこの社会武力紛争を抑制するために、従来の主権国家に代わって世界共和国のような新たな「国家」をつくりだすかもしれない。
 いずれにせよ、戦争とは何かをきちんと定義しないかぎり、200年後に戦争がなくなりますといわれても、一体どのような戦争がなくなるのか不明である。益川氏自身も語っていたように、こと戦争に関する彼の思想や発言はナイーブとしかいいようがない。
 ところで益川氏は科学者でつくる憲法9条の会のメンバーだという。ならばこそ、私は益川氏に是非お願いしたい。憲法9条の精神をもって世界の紛争を解決してほしい。特にパレスチナ問題である。ノーベル賞受賞の権威をもって、ガザに乗り込み、イスラエルとパレスチナの問題を憲法9条の精神で、非暴力で両者に和解を迫ってほしい。なぜなら憲法前文で示された平和主義は寺島俊穂『市民的不服従』(風行者、2004年)のいうように、「より平和な世界を構築していくために非暴力によって世界の現実に積極的にかかわっていくことを宣言した原理」(265頁)だからである。もはや護憲を叫び、政府の安全保障政策に反対するだけでは不十分である。より積極的に世界の平和に向けて行動することが必要であろう。さもなければ、平和研究者のダグラス・スミスが批判するように、日本人は憲法前文の精神を実践したこともなく、安穏として米国の核の傘の下に暮らしていたにすぎない(寺島、262頁)、との批判を受けることになる。
 冷戦が終焉した現在、米国の核の傘はなくなり、われわれは安穏とした生活をつづけることはできなくなった。実際、核廃絶を訴えるオバマが日本のために核兵器を使用することなど有り得ないし、また核戦争に反対する日本国民がアメリカの核の傘に守られるという偽善を許すはずもない。たとえ北朝鮮が万が一日本に核攻撃を行ったとしても、日本国民はオバマに核兵器による報復はもちろん通常兵器による報復を要請することなどないだろう。朝日新聞がはたして米国は日米同盟の義務を履行して北朝鮮に核報復せよなどという社説を書くなどとはとても考えられない。憲法前文の精神を深く理解する日本国民は甘んじて第2のヒロシマ、ナガサキを受け入れるだろう。
 だからこそ、そうならないように、アメリカの核の傘に代えて、憲法前文の非暴力の原理で世界の紛争の解決に益川氏をはじめ憲法9条の会は立ちあがってほしい。益川氏には北朝鮮に乗り込んで拉致被害者を非暴力で取り返してほしい。またガザに入り、イスラエルとパレスチナの間に割り込んでほしい。それだけで世界中の耳目を集めるだろう。なにしろノーベル文学賞の候補者というだけで村上春樹があれほどの注目を浴びたのだ。実際にノーベル賞を受賞した益川氏が紛争地に赴けば事態は大きく変化するだろう。さらにガンジーのように殉死を覚悟すれば、一気に問題は解決の方向に動くかもしれない。それこそが寺島のいうように「より平和な世界を構築していくために非暴力によって世界の現実に積極的にかかわっていくこと」になるのだ。憲法9条の会は、今こそ憲法の精神を実践すべき時だ。

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August 06, 2009

バーダー・マインホフとファシズム復興運動

 『バーダー・マインホフ-野望の果てに-』を見た。原作はシュテファン・アウスト著のドキュメンタリー、『バーダー・マインホフ・コンプレックス』だ。わざわざ映画の冒頭で事実に基づいて製作しているとテロップがあった。それで長年疑問に思っていたことが氷解した。
 まずなぜ、西独赤軍の受刑者たちが獄中自殺できたのか。中の一人は拳銃で自殺した。刑務所にどうして拳銃を持ち込むことができたのか。映画で、その理由がわかった。弁護士が協力して、裁判記録の中に隠して房内に運び込んだのだ。日本の刑務所とは異なり、書棚もあれば、テーブルもある、まるでひろびろとした1Kのアパートの一室のようだ。タバコも自由に吸える。テレビもラジオもある。相当に自由に生活ができたようだ。また裁判が始まってからは、裁判を迅速に行うことを理由に受刑者同士の打ち合わせの機会が与えられ、別々の刑務所に収監されていた犯人たちが一つの刑務所に集められてもいる。
 日本から見れば、全く異例とも思える受刑者への待遇だ。それが西独では一般的であったのか、それとも西独赤軍に対してのみ与えられた特例だったのかは、映画ではよくわからなかった。西独赤軍が裁判闘争を刑務所の内外で行った結果、裁判を迅速に進めたい当局が西独赤軍の要求を受け入れて、さまざまな特例を認めたのかもしれない。
 アンドレアス・バーダー、ウルリケ・マインホフ、グドルン・エンスリンの西独赤軍の創設メンバーが獄中に入ってからも、かれらの脱獄、解放に向けたハイジャックや大使館襲撃、誘拐などの奪還闘争が何年にも渡って続いた。一体だれが、どのようにして組織を維持し、命令を伝達できたのか。その一端が映画で明らかにされている。それは、弁護士が獄中の受刑者と外部との連絡は仲介していたのだ。またパレスチナ過激派組織PFLPがかれらの活動を支援していたのだ。PFLPの背後には東独がおり、東独の背後にはソ連がいた。つまり西独赤軍を背後で操っていたのは、結局東独やソ連ということだ。西独赤軍の目的や理念はともかく、その活動は米ソ冷戦に巻き込まれ、やがて東独やソ連のエージェントと化していった。ちょうど同じことは日本赤軍にも言える。かれらの活動もまたパレスチナ問題に関わったときから冷戦に巻き込まれ、結局はソ連の手先となってしまった。ちなみに西独赤軍の「赤軍」は日本「赤軍」に由来している。
 70年代に過激派を多数排出した国は日本、ドイツそしてイタリアである。その特徴はいずれもファシズム国家だったことだ。日本の日本赤軍、西独の西独赤軍そしてイタリアは「赤い旅団」は、いずれも共産主義を信奉し、都市ゲリラとして銀行強盗や誘拐やハイジャックなどの過激な手段によって体制を変革しようとした。彼らが目指したのは結局のところ、共産主義という名の全体主義国家であり、それは彼らが批判して止まなかった日本陸軍の青年将校の軍国主義やヒットラーのナチズムそしてムッソリーニのファシズムと本質的に何ら変わるところは無い。
 彼らが、全体主義を激しく批判し、やがて自壊していったのは、敵だと思っていた相手が鏡に映った己が姿であることに気がついたからだろう。資本家はブタであり、殺してもよいとのマインホフの主張は、ナチスのユダヤ人虐殺の論理と変わらない。実際、『ベニスの承認』の昔からヨーロッパで金融を昔から牛耳っていたのはユダヤ人財閥である。銀行家を抹殺せよとの思想の背後には、ユダヤ人に対する差別観が潜んでいるとしか思えない。また日本赤軍の指導者重信房子の父親は戦前の右翼運動に関わっており、彼女もまた父親の生き方に大きな影響を受けたと自伝で記している。
 結局、西独赤軍、日本赤軍そして赤い旅団の本質は、マルクス主義ではなく、共産主義の全体主義的イデオロギーの影響を受けた、戦前のファシズム復興運動ではなかったのか。そう考えると彼らがなぜ米帝国主義を激しく憎悪したかがわかる。それは勝者の占領政策に対する敗者からの異義申し立てであったのだ。冷戦時代とは、米ソ間のイデオロギー闘争であると同時に、ポストファシズムとしての敗戦国住民による勝利国政府への武力闘争の時代でもあったのだ。その目標は、まずは占領政府である米国政府に従属する自国政府に向けられ、そしてその背後に控える支配国家米国政府に向けられたのだ。ソ連やPLOと共闘し、逆にソ連やPLOが彼らを利用したのは、米国という共通の敵を共有していたからに他ならない。
 ポストファシズムという文脈から考えると、現在の憲法ナショナリズムに連なる戦後の日本の左翼運動の淵源は、マルクス主義ではなく共産主義の全体主義に通底する戦前のファシズムにある。高い理想を掲げ、その理想を判断基準に現実を改革しようとする理想主義である。日本の政治思想の中で、こうした理想主義が生まれたのは、明治維新、昭和前半の青年将校そして戦後の学生運動の時期である。いずれも若者が理想を掲げ現実の改革を迫った。明治維新は成功した。しかし、対米戦で完敗し、青年将校の思いは遂げられなかった。彼等の反米思想はやがて戦後の学生に受け継がれ、共産主義反米ナショナリズムとして左翼運動に引き継がれた。左翼の流れをくむ環境運動、人権運動など現在のサヨク運動は本質的に左翼ではない。それはグローバリズムやエコロジーという名のファシズムである。
 作家の阿川弘之は大江健三郎を、まるで青年将校のようだ、と評しているといわれる。2.26事件で青年将校を叱責した昭和天皇と青年将校との因縁の対決は、昭和天皇を尊崇する阿川のような天皇ナショナリズム派と昭和天皇を毛嫌いし文化勲章を辞退した大江のような憲法ナショナリズム派との間で今もなお続いている。
 西独赤軍、日本赤軍や赤い旅団のファシズム復興運動は、冷戦の終焉とともに姿を変えて、現在では環境問題へとその焦点が移っている。いつの時代でも全体主義体制におもいを寄せる人々は多い。問題なのは、それが常に正義の衣をまとっていることだ。
 バーダー・マインホフを見て、思わず妄想がひろがってしまった。

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August 02, 2009

『憲法9条を輸出せよ!』のツッコミどころ

 随分前から気になる本があった。2008年にピース・ボート共同代表の吉岡達也氏が出版した『9条を輸出せよ!』である。帯に「『”丸腰”こそ安全』という『紛争地の常識』」、「『武装することの危険』を知らない日本人」など、刺激的な惹句が並んでいる。本棚にずっと並べておいたのだが、手にとる機会がないままに一年がすぎた。憲法9条問題を考えるにあったて今あらためて読んでみると、これは一種のトンデモ本だということがわかった。憲法関連の書籍には、ただひたすら平和を念じ、念ずるあまりついに本を出版したという市井の善意の平和運動家が多い。吉岡氏のピース・ボート共同代表という肩書、また出版社も大月出版という共産党系の比較的しっかりした出版社であることから、弱小出版社から出版された素人著者の著作とは違うと期待していたのだが、内容はさほど変わらなかった。
 本は一種のエッセーや体験談の寄せ集めだ。その中で、私がひっかかったのは、いわゆる平和主義者の偽善をもっともよくあらわしている「『”丸腰”こそ安全』という『紛争地の常識』」という旧ユーゴでの吉岡氏の体験談である。
 1992年に吉岡氏はクロアチア共和国内の最前線の街パクラッツに入り、そこで引率していたPKO部隊のミスで、セルビア人武装勢力に取り囲まれ、PKO部隊の建物から出られなくなった。武装勢力側が彼の身柄を引き渡すよう強硬に要求したが、国連本部による交渉の結果、ミスを犯した現地のPKO部隊の将校が辞任することで武装勢力と話しがつき、、吉岡氏は解放されたという。紛争地では、ありがちなトラブルである。しかし、ありがちでなかったのは、なぜ解放されたか、吉岡氏の説明である。彼はこう記している。
「このパクラッツ事件で、私はナイフやピストルを持ったセルビア系住民たちに囲まれ、危機一髪と言っていい状況を経験した。『日本の常識』からいうと『だから紛争地に行くときは、せめてピストルか小銃でも持っていかないと危ないんだ』ということになるかもしれない。しかし、実際には、この経験を経て、より丸腰の安全性について確信を深めることになった。なぜなら、私たちが丸腰であったことが、最終的に何の危害も加えられずに解放された最大の理由だった」(吉岡、52頁)。
この説明を読み、思わず椅子からずり落ちそうになった。そもそも「『日本の常識』からいうと『だから紛争地に行くときは、せめてピストルか小銃でも持っていかないと危ないんだ』」というのは、日本の常識なのか。こんなことを本当に普通の日本人が常識として持っているのだろうか。よしんば、これが常識であったとしても、それはPKO部隊に参加する自衛隊の場合だろう。
吉岡氏はこう続ける。
「もし、セルビア系住民に取り囲まれた時、私たちが武器を持っていたらどうなっていただろうか。おそらく彼らの目に私たちは明確な敵対者として映り、物理的攻撃を受けていた可能性は大いにある。また、私たちを引率していたカナダ軍の兵士が必至に「彼らは武器を持っていない!」と何度も叫んでいたのも目の当たりにしている。まさに『丸腰』であることが、彼等の暴力をおもいとどまらせる説得力を持っているからこそ、そのカナダ軍兵士は私たちの『丸腰』を訴えていたのではないだろうか」(吉岡、52頁)
吉岡氏はPKO部隊の武装したカナダ軍兵士に護衛されていたではないのか。本人たちが丸腰であろうがなかろうが、武装兵士が護衛すれば、それは「丸腰」とはいわないだろう。さらに吉岡氏は、続けてこう記す。
「そして人道支援で現地に行く時にもっとも大事なことは丸腰で行くことであり、『丸腰こそが安全である』という『紛争地の常識』を発見したのだ」(吉岡、53頁)。我田引水極まれり、である。この吉岡氏の発言を護衛したカナダ軍兵士や解放交渉にあたった国連関係者が知ったら一体どう思うだろうか。吉岡氏自身にも、尋ねたいのだが、ではなぜピース・ボートはソマリア沖で自衛隊の護衛を頼んだのか。
いや、そうではなくて、吉岡氏の論理で言えば、たとえ武装した兵士や軍艦に護衛されても自分たちが丸腰であることが丸腰の意味なのだろう。それは、「日本の常識」からは全く外れた「吉岡氏の常識」ではないのか。吉岡氏が事件にあった92年以降世界に紛争が広がり、丸腰であろうがなかろうが、一般市民を対象にした殺戮は後を絶たない。人道支援だからといって殺傷されない保証はない。実際、92年7月にはカンボジアで中田厚仁氏、2008年8 月にはアフガニスタンでペシャワル会の伊藤和也氏が殺害されなど、日本人に限らず、丸腰の人道支援のボランティアが次々と犠牲になっている。この現状を吉岡氏はどう考えるのだろうか。また人道援助でなくても、治安が悪ければ丸腰であろうがなかろうが殺人事件は起こる。「誰しも『丸腰』の人間に危害を加えることには躊躇する」(吉岡、52)というが、その動機の如何に関わらず一般に殺人のほとんどは、丸腰の人間を対象にしている。
さらに吉岡氏は、無事に解放された理由として自分が日本人であることを挙げている。
「私たちの解放のためにセルビア側との粘り強い交渉を続けてくれた国連高官が、解放後、笑いながら私にこんなことを言った。
『君が日本人じゃなくて、もし銃を持っていたら、(解放は)無理だったな』。
彼もまた『丸腰』が私たちの安全を保障したことを認めたわけだが、さらに、それに加え、私が『日本人』であったことも解放の要因として挙げたのである。その理由は、当時、欧米が強くセルビア側を非難していたために、欧米人でなくてよかったということがひとつ。
そして、もう一つはセルビア人を含め旧ユーゴの多くの人が抱いている『ヒロシマ・ナガサキを経験した平和国家』という日本のイメージが果たした役割なのだ」
それでは同行したクロアチア人ジャーナリストやドライバーは解放されなかったのだろうか。いくら『9条を輸出せよ!』という本の題名にあわせるためとはいえ、これではあまりに我田引水のしすぎだろう。
いっそのこと日の丸をもって、憲法9条を読経しながら紛争地に行けば、たとえ武装した護衛がいなくても、弾にもあたらず襲われることないだろう、とツッコミを入れたいところだ。それについて吉岡氏は治安のよくないところに行く時の心構えについてこう答えている。
「現地の人々に守ってもらう」のが、「一番現実的で、安全で、理にかなっている。もちろん私たちは一切武装すべきではない。では、今度は、私たちを守る現地の人々は武装してもいいのかという疑問がでるかもしれない。たしかにこれは難しい問題だ。この答えに関しては賛否両論あるかもしれないが、私の意見は、もしその『武装』が攻撃目的のものではなく、護身用の範囲を越えないものならば、現地の人々の考えに任すべきだというものだ。その土地の現状を熟知しているのは、そこに暮らしている人々だからである」(吉岡、54頁)
ではなぜ、吉岡氏はカナダ軍兵士の護衛を受けたのだろうか。また自分は『丸腰』で護衛という危険な任務は現地の人に任せるというのは、道徳や倫理に悖る行為ではないのか。ジョージ・オーウェルは『ナショナリズムについて』にこう記している。「平和主義者が『暴力』を放棄できるのは、他の人間が彼らに代わって暴力を行使してくれるからだ」。吉岡氏もまた、他人のことに思いを致さない典型的な平和主義者なのだろう。
平和主義者と国粋主義者はまるで合わせ鏡のように同じような思考パターンを持っている。それは憲法9条ナショナリズムか天皇ナショナリズムかナショナリズムの対象が違うだけで、日本ナショナリズムの体現者である。そしてかれらはいずれもがみずからのナショナリズムを絶対視し、「日本の常識」とはかけ離れた世界に住み、みずからの主張を声高に叫んでいる。そして自分達の都合にあわせて世界を解釈し、行動している。それだけに吉岡氏の本はツッコミどころ満載できりがない。これからも吉岡氏には大いにボケてもらいたい。


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