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March 31, 2012

非戦手記と非暴力主義の混同

 いまさら非戦主義、非暴力主義などを論じても、北朝鮮の核兵器開発やミサイル実験、中国の軍事大国化を前にして、無意味なような気がする。しかし、戦後(この戦後という言葉が太平洋戦争後だというのも現在の世界では希有のことのように思われるが)、日本では一貫してこの非戦主義と非暴力主義が混同されており、そのことが結果的に憲法9条の問題を複雑にしてきたのではないかと思う。
 非戦主義と非暴力主義は似て非なるものである。そのことは良心的兵役拒否の問題につて考えれば、すぐわかる。良心的兵役拒否者は非暴力主義ではあるが、非戦主義ではない。なぜなら良心的兵役拒否は戦争を前提にしてはじめて非暴力主義にもとづく良心的兵役拒否が成立するからである。良心的兵役拒否はあくまでも個人の思想の問題であり、国家の武力行使である戦争を否定するものではない。
 非暴力主義は宗教的信念に基づく場合がほとんどである。キリスト教の非暴力主義は「復讐するは我にあり」(新約聖書「ローマの信徒への手紙」12章 19節)に基づいている。神が人間に対する処罰を与えるが故に、神の被造物である人間が同じ神の被造物である他人に、神に代わって暴力をふるうことをいましめているのである。あるいは非暴力主義は「なんじ殺すなかれ」という十戒の教えに基づいてもいる。さらにメノナイト派やいわゆるアーミッシュの人たちの中には「二王国論」思想に基づきこの世は仮の世で、真の世界は「神の王国」にあり、「終末思想」に基づきいずれ「神の王国」がこの世にあらわれることを期待して、そのときに神の恩寵を受けるべく非暴力主義を実践しているのである。
こうした宗教的非暴力主義はキリスト教だけではない。ロシア正教ではドゥホボール派、またバハイ教でも非暴力主義の教えを説いている。仏教でも非殺生の思想が説かれる。この非殺生の教えは仏教に多大な影響を与えたインドのジャイナ教に多くを負っている。ジャイナ教では十大禁戒や五大禁戒などで聖職者や信者に動植物の殺生を厳しく戒めている。
このジャイナ教の禁戒を現代に適用したのがガンジーである。ガンジーの教えは現代の非暴力主義の原点になっている。しかし、それはあくまでも個人の思想の問題であり、ガンジー自身は非暴力主義者ではあったが、非戦主義者ではなかった。なぜなら、ガンジーは第1次世界大戦のおりインド各地をまわって若者たちにイギリス本国とともに戦うよう兵役志願を呼びかけたのである。その目的はイギリスに協力することで、インドの独立を図ることにあった。つまりガンジーにおいても非暴力主義と非戦主義は異なるのである。
他方非戦主義は国家の武力行使そのものを否定するが、個人の暴力を否定するものではない。カントの『永遠平和のために』で一読了解できる。カントは徴兵に基づく常備軍を否定し、国家間の戦争を否定した。その意味ではカントは非戦主義である。その一方で、カントは有事の際に個人の意志に基づき侵略者と戦う民兵は肯定した。つまりカントは非戦主義者ではあるが非暴力主義者ではない。
カントに多大な影響を与えたルソーもまた、サンピエールの永久平和論を批判しつつ、永久平和への道筋を考察した。ルソーが抱えた問題は、全ての国が共和国になれば、そして世界共和国ができれば永遠平和になるということであった。そのためには、君主が無条件に主権を委譲しない限り、武力革命による人民による君主からの主権の奪取が必要であり、また共和国家の間でも、場合によっては国家間で主権の委譲をめぐって戦争が必要となると、戦争を否定するための革命や戦争という問題を提起した。冷戦時代には左派がこの論理を持ち出し、戦争を否定するための革命や戦争を正当化しようとした。つまりいわゆる左派は共産主義世界になれば暴力も戦争も無くなるが故に共産主義世界を実現するためには革命や戦争は必要であると暴力や戦争を肯定していたのである。
このようにガンジーのような非暴力主義、戦争肯定論、カントやルソーのように非戦主義、暴力肯定論と、非戦主義と非暴力主義は異なるのである。ところが護憲派は、これを意図的にか、あるいは無意識にか、混同している。護憲派は第2次世界大戦の個人的体験に基づいた感情的非暴力主義、あるいは冷戦時代の「死ぬより赤がまし(red better than dead)」という敗北主義的非暴力主義、あるいは一部の宗教的非暴力主義に基づいて憲法を守れといっているにすぎない。戦争そのものを否定する非戦の思想や論理は、非暴力主義の護憲派にはない。
カントのような非戦主義を主張するなら、憲法9条は国家による他国に対する武力行使を禁止する一方で、個人の武装権は認めなければならない。社会契約論に依拠する限り、たとえ国家の武装権は否定されたとしても、国家権力に対抗するための個人の武装権は認めなければならない。日本の護憲派は、個人の非暴力主義の延長線上に擬人化された国家の武力行使も否定している。しかし、それでは、個人の自衛権の延長上に国家の自衛権を認める現状の憲法解釈と論理的には何ら変わらない。湾岸戦争の頃日本が湾岸戦争に参加しない理由づけに朝日新聞や毎日新聞が社説で良心的兵役拒否国家を主張したが、これなど擬人化された国家の論理以外の何物でもない。また憲法9条が擬似宗教になったことの現れでもあった。
非暴力主義の実践は個人の問題である。しかし、非戦主義は国家の政策の問題である。憲法9条を守れというだけでは、非戦主義の実践とはならない。実際に武力によらない武力紛争の解決が国家の政策として求められる。そしてその政策を実行するための組織も必要となる。それは他国が政策遂行手段として軍隊をもっているのと同様に、政策遂行手段としての非暴力民兵部隊が必要である。憲法9条部隊はその原型である。
 

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エネルギー問題の複雑さ

 旧聞に属するが、エネルギーに対する新たなパラダイムを中沢進一が『日本の大転換』で披露している。原子力発電について、彼はこう記している。「原子炉で起こる核分裂連鎖反応は、生態圏の外部である太陽圏に属する現象である」。これとは対照的に「石油や石炭を使った他のエネルギー利用とは、本質的に異なっている」(22頁)。
 全く中沢の指摘の通りである。つまり、われわれは太陽からのエネルギーとは全く無関係の核分裂エネルギーを地上で創り出し、利用してきたのである。原子のエネルギーが取り出せれば、人類は永遠のエネルギーを手に入れることができる。しかし、残念なことに、核融合エネルギーである太陽エネルギーとは異なり、核分裂エネルギーである。核分裂エネルギーはプルトニウムを生産する増殖炉が実現すれば、人類にとって永遠のエネルギーになるはずだった。たった一つの問題を除けば。それは核のゴミ処理問題である。今のところ核廃棄物を処理する方法は見つかっていない。その意味では、核分裂エネルギーを利用した原発は欠陥のある技術である。たしかに、吉本隆明のいうように科学技術の進歩をとめることはできない。とはえい、少なくとも核分裂から核融合へ、あるいは核分裂エネルギーから太陽エネルギーや核融合エネルギーなど他のエネルギーへと科学技術の方向を変える必要はあるだろう。
 とはいえ、新たなエネルギーとして太陽エネルギーにもバラ色の未来があるとは思えない。
 現在地球上に70億人もの人類が生存している。これほどの人口増加したのも、ひとえに化石燃料のおかげである。単純に計算して、人間一人が生命を維持するのに必要な最低限のエネルギー総量は決まっている。太陽エネルギーを植物が蓄え、蓄えられた太陽エネルギーは草食動物によってさらに蓄積され、それを肉食動物や人間のように植物や動物も食べる雑食動物が食べて生存している。つまり生命の全てのエネルギーの源は太陽にある。
全てのエネルギーを太陽に依存していた時代が農業時代である。農業時代は太陽のエネルギーを食料としてほとんど蓄積できなかった。塩漬けや乾燥した肉や野菜のように動植物の貯蔵には限界があった。だから家畜を飼い、穀物や野菜をつくり、それらをすぐに消費し、貯蔵できる範囲でしか人間は生きられなかった。
ところが化石燃料の発見が状況を一変させた。化石燃料とは、太陽エネルギーの缶詰である。地球が過去に受けた太陽エネルギーを植物や動物として蓄え、さらにそれを濃縮して貯蔵したのが石油や石炭のような化石燃料である。この化石燃料のおかげで、食料生産は飛躍的に増加し、貯蔵もほぼ半永久的に可能となり、何よりも交通網の発達で余剰生産物を足りない地域や国に運搬することが可能になった。つまり、現代のわれわれは過去の太陽エネルギーの恩恵を受けて生存しているのである。だからこそ、70億もの人口をささえることができるのである。
 さて、この化石燃料のエネルギーがいつまで持つかだれにもわからない。石油や石炭、メタンハイドレート、オイルサンド、シェールガス等の埋蔵量を合わせれば、ここ数十年、数百年は問題はないだろう。しかし、いつまでも化石燃料には依存できない。いずれは限界が来る。いつかは太陽エネルギーによってまかなわなければならなくなる日が来る。
 しかし、化石燃料分のエネルギーを太陽エネルギーで補おうとすれば、化石燃料のように太陽エネルギーを貯蔵できる技術ができるかどうかにかかっている。しかし、仮にそうした技術ができたとして、はたして環境にどのような影響が及ぶか、実はだれにもわかっていない。太陽エネルギーがあたかも究極のエネルギーのように語られているが、実は太陽エネルギーの多くを人類が利用した場合、他の動植物や気象、海象等にどのような影響がおよぶかは全く未知である。しかし、これだけは言える。環境に大きな影響を与えることは間違いない。
 というのも、単位時間あたり太陽エネルギーが地球に与えるエネルギーの総量はいまも昔も未来も変わらない。そのエネルギーを現在の地球上のほぼ全ての生物が受け、生存している。その一部を人間が太陽光発電等により途中で収奪した場合、その影響は微生物のレベルで大きな影響をあたえることは間違いない。食物連鎖の結果、最終的には、人間の食料生産にも甚大な影響を与えかねない。また風力、波力発電も元をたどれば太陽エネルギーである。太陽エネルギーを電力エネルギーとして取り出した場合、その程度がどれほどのものになるかはエネルギーの簒奪の規模によるが、気象、海象に影響をあたえることは間違いない。
 現在は、こうした太陽エネルギーの利用がごくわずかなために、地球規模の環境にはほとんど影響を及ぼしていない。しかし、現在の化石燃料、否、原発のエネルギー全てを太陽エネルギーに代替させようとすれば、環境にも大きな影響が出てくる。ことは電気の問題だけではなく、とどのつまり食料生産や環境の問題につながる。
 環境への影響を避けようとすれば、太陽エネルギーや化石エネルギーへの依存を減らし、エネルギー消費を減らせばよい。たしかに先進国では必ずしも人間の生存に直接関わるギリギリのエネルギー消費のレベルではない。だから節電も可能である。しかし、発展途上国では、エネルギーがそもそも不足している。エネルギー消費を節約すれば、それは直ちに死を意味する。
 要するに現在の70億人の人類が生存可能なのは、現在我々が太陽から得ているエネルギーと、石油、石炭等の化石燃料に蓄えられた太陽エネルギーがあるからだ。もし、化石燃料も止めて、全てを現在の太陽エネルギーによってまかなおうとすれば、一定時間における太陽エネルギーの総量が同じである以上、化石燃料のエネルギーに依存していた人口は生存できなくなる。太陽エネルギーの時代は単位時間当たり限りある太陽エネルギーをめぐって人類どうしで戦争が起きる時代となるかもしれない。再生可能エネルギーという文言には大きなまやかしがある。太陽エネルギーは再生できない。

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