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September 25, 2012

米国は旗幟鮮明に

日中間の対立がいよいよ深刻化している。デモなどは政府によって規制され、表面的には収まったかのように見える。しかし、潜在的には事態は領土問題からイデオロギー問題へと質的に変化している。
 中国は当初から尖閣問題をきっかけにして日本の勢力を削ぐことを目的にしている。戦後一貫して中国は日本をファシズム、軍国主義国家として規定することで米国との関係を密にし、日米の分断を図ろうとしてきた。
しかし冷静に考えてみれば、米国が中国共産党との友好関係を図ろうとしたのはニクソン政権時代以降である。しかも、それは本当の友好というよりは当時の大統領補佐官のキッシンジャーの冷徹な権力外交の結果でしかない。敵の敵は味方という権力政治の原則に則り、米国が当時敵対していたソ連を封じ込めるために、やはりソ連と敵対関係にあった中国と友好関係を結んだにすぎない。イデオロギー的に見れば、昔も今も変わることなく、米中は水と油である。ただ両国は経済的には資本主義国家で、まさに双頭の鷲か蛇である。
 第二次世界大戦中、国共合作していたとはいえ、筑波大学の古田博司教授が指摘するように(2012.9.20産経新聞「正論」)、実質的に日本軍と戦ったのは蒋介石の国民党であって、毛沢東らの中国共産党ではない。それを、あたかも中国共産党が日本と戦ったかのように歴史を改竄し、米中はともに軍国主義日本と戦わなければならないと主張するのは、まさに笑止千万である。
 依然として共産党の独裁下にあり、国民の自由を奪い人権を侵害している国が一体いかなる根拠をもって、少なくとも米国と同程度には民主的で、自由で人権を尊重する日本を軍国主義と非難し、過去を反省していないと言えるのか。
 歴史を改竄しなければ、政権を維持できない国ほど、浅ましくも悲しい国家はない。米国はまさか、そのような国家に味方することはないと思う。もし、そうだとすれば、中国が主張するように、日本は過去を反省しない軍国主義でファシズムの国家だと米国が認めることになる。だとすれば、戦後の米国の対日政策は全くの失敗ということになる。米国の有識者に問いたい。日本は米国が指導してきたように民主主義国家なのか、それとも中国が主張するように戦後の国際秩序を破壊するファシズム国家なのか。

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September 20, 2012

尖閣問題は自由と独裁の戦い

尖閣諸島をめぐる日本と中国の争いは、資源や領土、主権をめぐる争いではない。自由主義体制と独裁体制との間の自由をめぐる戦いである。ワシントンに来て、それが身に染みてわかった。 
ワシントンの街を歩く時、何も気にすることはない。上空を行きかう、おなじみの海兵隊のヘリコプターを撮影しても、誰も咎めることはない。ましてやシリアのように、逮捕、監禁されることもない。人々は誰をも気にすることもなく、自由に話し、行動している。
 宿泊したホテルでたまたま私の部屋を掃除していたメードと話をする機会があった。訊くと、15年前にエチオピアから来たという。アメリカの暮らしはどうかと尋ねると、自由があって良いと言う。経済的な理由を挙げると思っていたら、真っ先に出た答えが自由だった。15年前のエチオピアというと、メンギスツ独裁政権が倒れた後にメレス・ゼナウィによる連邦共和制が樹立されて間もないころだ。改革開放がすすんでいたが、それでもなお国を捨てる決意までするほどに自由へのあこがれがあったのだろうか。しかしシリアの体験から私には、彼女の気持ちが少しだけわかる気がする。
 人間にとって、最も重要なもの、かけがえのない価値とは、自由だ。豊かさは、自由を獲得する手段の一つでしかない。素晴らしい社会や国家とは、豊かであることよりも、皆が平等に自由を享受できる社会である。すべての価値の根源には自由がある。人は誰からも強制されることなく自らの生き方を決定する権利がある。先人の言葉を持ち出すまでもなく、人間は生まれついて自由である。人間は自由を求めて生きていくのである。働くことも、学ぶことも、窮極的には自由をできる限り獲得することにある。もちろん、その自由は他人の自由を侵すものであってはならない。独裁体制は、他者への配慮を欠いた一部の者による、多数の人々の自由の圧殺体制である。デモをもコントロールする現在の中国共産党体制はまさにその典型である。
 中国にはデモをする行動の自由もなければ、ネットは規制され言論の自由もない。さらには都市戸籍と農村戸籍があり居住の自由もない。改革が進められているとはいえ、いまだに戸籍を変えようと思えば多額の賄賂がいる。シリアのように自由もなく賄賂が横行する国家が大国といえるのだろうか。ただ人口が多く、国土が大きいというだけではないか。その人口の多さを武器に経済でも、政治でも、ごり押しを重ねている。なぜ中国国民は自分たちを政治の手段や経済の道具としてしか見ない共産党に反旗を翻さないのか。最近の反日デモを見るにつけ、さらに反日デモが拡大して、反政府運動に拡大しないかと期待を膨らますばかりだ。
 日中の対立で問われているのは、中国の独裁体制の悪であり、日本やアメリカなど自由主義陣営の自由の真価である。自由は決して金で売り買いできるものではない。中東で独裁体制への異議申し立てが次々と起こっている今、心ある中国国民には自由を求めて決起を促したい。自由の国アメリカに来て腹の底からそう思う

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September 05, 2012

ダマスカス拘束120時間-秘密警察での48時間の拘束-②

【拘置所の実態】
 今なお、私が一体どういう組織で、どういう施設に拘留されたのか、正確なところはわからない。シリアには「ショルタ」という一般警察、治安を担当する「ムハバラート」と呼ばれるいわゆる秘密警察がある。私を拘束したのは十中八九ムハバラートだと思う。拘留施設もムハバラートの施設だと思う。
 とりあえず、この秘密警察の施設を拘置所と呼んでおく。ただし、実態は暴力が支配する拷問施設である。独房に拘置された小太りの初老の男性一人と、私を含め通路部分に収容された兵士十数人には暴力が振るわれることはほとんどなかった。しかし、年齢に関わりなく雑居房の収容者への暴力、拷問は日常茶飯事であった。
 毎朝、恐らく8時か9時頃(時計がないので正確にはわからない)に取り調べが始まる。尋問係官が名簿をもって、我々が座る通路を通って雑居房へ行き、尋問予定の7~8人の名前を呼ぶ。雑居房の中ではリーダーかもしくは鉄扉付近にいる収容者が、異様に元気で大きな声で名前を中に向かって復唱する。呼ばれた者もまた、恐らくは恐怖の裏返しの行為なのであろう、これから楽しいことでもあるかのような弾んだ声で返事をする。そして扉が開けられ、一人一人ずつ雑居坊の中から尋問を受ける収容者が出てくる。この時、モタモタしてなかなか房から出てこない者には係官の容赦ないビンタやケリが加えられる。
初めて見たときにはそのビンタやケリの迫力に驚いた。ビンタは腕を曲げずに腕全体を使ってまるで分厚い板で殴るかのようにして横っ面を張り倒していた。映画やテレビで聞き知ったパンとかパチンといった乾いた音ではない。皮カバンを思い切り平手でたたいたようなドスンというくぐもった音だ。場合によっては、さらに腹部にケリが入れられる。係官は間違いなく空手のような武術を習得しているのであろう、体全体を使って足を素早く回転させ腹に思い切りケリを入れる。サンドバッグに蹴りを入れたときと同じようにドスンとくぐもった音が聞こえてくる。
係官の中には皮鞭を振るうものいる。皮鞭といっても、たたいても傷にならないように、ベルトほどの幅があり、数ミリの厚さのある、まるで皮の靴ベラのような鞭である。これを使って背中をたたいたり、足の向こう脛をたたいたりして、収容者にいうことをきかせていた。ヒュッという鞭が空気を切り裂く音、そしてバシッという鞭が体をたたく炸裂音、全く非日常的な情景にまるで映画をみているかのような錯覚が起き、恐怖もなにも感じない。
ビンタやケリよりももっと驚いたことがある。それは、ビンタやケリを入れられた収容者がまるで何も効いていなかったかのように平然としていることである。ほんの2~3メートル離れたところで目撃していたのだが、決して係官が力を手加減していたわけではない。ビンタを加えられれば勢いで体は横に揺らぎ、ケリを入れられれば後ろによろける。しかし、それも瞬時のことである。すぐにもとに戻り、まるでなにもなかったかのように平然としている。恐らくは、これから始まる拷問に比べればなにほどのこともないからかもしれない。
その拷問を恐れるあまりだろうか、小柄で太った40前後と思われる男が房からなかなか出てこなかった。仲間から押し出されるように房から出てきたときには号泣していた。係官は、彼に当然のようにビンタとケリを入れ、鞭を使いながら追い立てるように恐らく拷問場所だろう、追い立てて行った。しばらくすると、われわれのいる房から10メートルほど離れたところにある拷問室の方向から、バシッという音に続いて、恐らくその男だろう、奇妙な節のついた甲高い悲鳴が繰り返し繰り返し聞こえてきた。その悲鳴が続いている間、房には重苦しい空気が淀んでいた。たまらず若い兵士が、拷問室から悲鳴が上がるたびに、笑いながらその悲鳴を真似て奇声を発していたが、恐らく恐怖から逃れようとしていたのだろう。
小一時間もすると、尋問が終わった収容者が房に戻される。その時、我々の前を通っていくのだが、何ごともなかったように戻っていく者もあれば、指や脛に包帯を巻かれた者、日焼けしすぎたかのように背中一面が真っ赤に腫れ上がった者、仲間に支えられながら足を引きずりながら歩く者もいる。収容者の中には兵士と顔見知りの者もいるらしく、尋問の行き帰りに一言二言挨拶を交わす者や、中には笑顔で会釈をする者もいる。笑顔の意味はわからない。
収容者の年齢は、下は10代から上は60代まで、さまざまである。印象としては若者よりは40代以上の壮年や初老の年代が多かったように思う。私も含めて収容者は皆着たきり雀である。逮捕されたときの服装のまま長ければ何週間、何カ月も拘束される。なぜかわからないがパジャマを着た初老の男もいた。その男のパジャマの下半身部分は排泄物なのかそれとも血なのか茶色く汚れていた。シャワーがあるわけでもなく、洗濯ができるわけでもない。当然皆異臭を発する。とりわけすし詰め状態で収容されている雑居房からせ汗と糞尿とゴミの腐臭とを合わせたようなすさまじい異臭がする。雑居坊の鉄扉を開けるたびに鼻がひん曲がるような異様な匂いが通路にまで漂ってくる。尋問係官も思わず手で鼻を覆っていた。収容者が前を通って行くとき、私も思わず手を鼻にあててしまった。彼らが出て行った後、臭気を追い去るために、いつも若い兵士の一人が脱いだシャツを扇風機替わりに振り回し、臭気を消し去ろうとしていた。拘置所は暴力が支配する、家畜小屋のような臭気が漂い、落語の「地獄八景亡者の戯れ」のような地獄が天国と思えるような場所だった。(続く)

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