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June 26, 2015

集団的自衛権をめぐる論争について

 集団的自衛権をめぐって喧しい限りです。集団的自衛権行使を合憲とする憲法学者は違憲派から文字通り罵詈雑言を浴びせられています。違憲派によれば憲法学者の中で合憲を支持するものは数パ-セントだということです。
 ところでつい最近集団的自衛権の行使を容認する学者も結構いるのではないかと思わせる本に出会いました。時の人である長谷部恭男早稲田大学教授が編集、執筆された『「この国のかたち」を考える』(岩波書店、2014年)です。同書に所収された苅部直東京大学教授の講義録「戦後の平和思想と憲法』で苅部教授は、憲法前文の国際協調主義に基づいて南原繁が個別的自衛権か集団的自衛権かにはこだわらず自衛権を容認していたと、1946年8月の貴族院本会議での南原の演説を引用しています。
「すなわち、本条章はわが国が将来「国際連合」への加入を許容されることを予想したものと思うが、現に同憲章は各国家の自衛権を承認している。且つ、国際連合における兵力の組織は各加盟国がそれぞれ兵力を提供するの義務を負うのである。日本が将来それに加盟するに際して、これらの権利と同時に義務をも放棄せんとするのであろうかを伺いたい。かくて日本は永久にただ他国の善意と信義に依頼して生き延びんとするむしろ東洋的諦念主義に陥るおそれはないか。進んで人類の自由と正義を擁護するがために互に血と汗の犠牲を払って世界平和の確立に協力貢献するという積極的理想はかえって放棄せられるのではないか」(185頁)。
 この南原演説に対し、苅部教授はこうコメントを加えています。 
「・・南原が、このように「世界平和の確立」への軍事的な貢献を積極的に支持し、一国平和主義と揶揄されるような考え方を批判していたことは、いまでもふりかえるに値する事実でしょう。
また、南原はこのとき国連憲章が認める「自衛権」とだけ言って、それが個別的自衛権か集団的自衛権かにはこだわらず、その行使が日本にも認められるべきだと主張しています」(185-6頁)
憲法前文の国際協調主義を重視する南原演説は、安倍の積極的平和主義の理念と全く同じといってよいでしょう。
続けて苅部教授は、集団的自衛権の違憲、合憲問題について、次のように記しています。
「一九五〇年台から六〇年台にかけての、外務省条約局長や内閣法制局長官による国会答弁では、日本が攻撃されていないのに他国へ自衛隊を派遣することは憲法に反すると説いた例がありますが、集団的自衛権の行使が一般的に不可能だとは解していません。ところがその後、一九六九年もしくは七二年に至って法制局は集団的自衛権の行使は憲法違反だと説明するようになりました。その背景には、日米同盟の廃止をスローガンとする野党に妥協して、国会の法案審議を円滑に進めようとした、自民党政権の政局対策がうかがえます」(186-7頁)。
続けて法制局の憲法解釈についても、苅部教授はこう記しています。「したがって、時の政権の都合によって法制局の憲法解釈が変更されることは、何も二〇一四年の安倍晋三内閣が初めてではありません。そのことは近年何人もの研究者によって実証的に明らかにされています(注略、引用者)。一九七二年の解釈変更の手続きは批判しないのに二〇一四年だけを批判するのはいったい・・・いや、これ以上言うと、教壇からの発言のルールを破ってしまいますね」(187頁)。立憲主義に基づき内閣による憲法解釈は認められないとする違憲派への反論です。
ちなみに長谷部教授は最後の章で、集団的自衛権そして立憲主義に基づきその行使容認の政府解釈変更も違憲との主張をされています。長谷部教授を国会に招致した自民党の船田元憲法審査会筆頭理事は同書をまずは読むべきだったでしょう。
さて現在の集団的自衛権問題は、与野党の権力闘争、保守、リベラルのイデオロギー抗争、Abephilia(安倍好き)、Abephobia (安倍嫌い)の感情的衝突という視点はさておき、憲法の国際協調主義と立憲主義の対立です。この問題は実は南原の演説でもわかるように、制定時から憲法が抱える根の深い問題です。国際政治学や安全保障の立場からは前者、憲法学の立場からは後者に立って論陣を張ることになるのでしょう。元来国際協調主義と立憲主義を止揚する論理や実践が必要なのですが、現在の言論空間ではとても冷静な議論が成り立ちません。残念ながら、憲法や安保法制の問題が、安倍首相個人の個人的資質や性格に還元されてしまい、政争の具や個人攻撃になっているからです。
双方とも冷静に論議のできる論争空間を構築する必要があるのではないかと思います。それにしても「三バカ」と揶揄され個人攻撃を受けている三人の識者に代わって、苅部直東大教授や大石真京大教授が議論に加われば、もう少し冷静な議論ができるのではないかと思うのですが。

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June 12, 2015

集団的自衛権異聞

 集団的自衛権問題が喧しい。とりわけ自民党推薦の長谷部恭男早稲田大学教授までもが違憲と断じたために、政府は一気にコーナーまで追い込まれてしまった。ところで長谷部教授は『憲法と平和を問い直す』(筑摩新書、2004年)で、憲法を原理、原則、理想の表明という立場から護憲論を展開している。その意味ではいわゆる原理主義的護憲派とは一線を画している。今から6年前に、そのことについてブログに書いたことがある。何かの参考になればと思い、再掲する。

 憲法を原理、原則、理想の表明という立場からの護憲論がある。たとえば長谷部恭男『憲法と平和を問い直す』(筑摩新書、2004年)や内田樹『9条どうでしょう』(毎日新聞、2006年)などである。これまでの憲法論議は改憲派、護憲派のいずれであれ、憲法9条を道路交通法のような「準則」と考え、現実と憲法との乖離を問題にしてきた。改憲派は現実にあわせて憲法改正を主張し、護憲派は憲法を厳守して現実を変えよと叫ぶ。
 どこかで似たような話しを読んだことある。中江兆民『三酔人経綸問答』である。改憲派、護憲派の論争は東洋豪傑君と洋学紳士君の問答そのままだ。武装を主張する東洋豪傑君、非武装を主張する洋学紳士君の説を南海先生はそれぞれ次のように批判する。
 「紳士君の説は、ヨーロッパの学者がその頭の中で発酵させ、言葉や文字では発表したが、まだ世の中に実現されていないところの、眼もまばゆい思想上の瑞雲のようなもの。豪傑君の説は、昔のすぐれた偉人が、百年、千年に一度、じっさい事業におこなって功名をかち得たことはあるが、今日ではもはや実行し得ない政治的手品です。瑞雲は、未来への吉兆だが、はるかに眺めて楽しむばかり。手品は、過去のめずらしいみものだが、振り返って痛快がるばかり。どちらも現在の役にたつはずのものではありません」(中江兆民、桑原武夫・島田分虔次訳・校注『三酔人経綸問答』岩波文庫、93頁)。
 そして南海先生の意見は、二人にとっては全く期待はずれにも、至極当たり前のものであった。南海先生の言によれば、「国家百年の大計を論ずるばあいには、奇抜を看板にし、新しさを売物にして痛快がるというようなことが、どうしてできましょうか」(109頁)。「外交の方針としては、「平和友好を原則として、国威を傷つけられない限り、高圧的に出たり、武力を振るったりすることを」しない(109頁)。
 これまでの憲法論議は、東洋豪傑君と南海紳士君の「奇抜を看板にし、新しさを売物にして痛快がる」ような論争ではなかったか。長谷部や内田らの議論は、まさに憲法9条を原則、理想としつつ、実際には政治家が責任倫理にしたがって妥協の術としての政治により原則に則って理想を実現できるよう憲法9条を弾力的に解釈、運用するのが一番ということになる。だから「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」との理想を掲げた前文はもちろん、理想としての憲法9条の条文も変える必要はないということになる。
 理想、原則としての憲法9条というのは、ユダヤ教、キリスト教の「汝、殺すなかれ」あるいはジャイナ教、仏教の「非殺生」の教えに似ている。これらはいずれも絶対的な教えではあるが、原則や理想であって、この禁戒を厳密に実践している者など誰一人いない。「汝、殺すなかれ」の教えでは殺してはいけない対象である「汝」の範囲が、人間であり、また同胞であり、また殺人者以外でありと、さまざまに限定を加えながら、現実には多くの「汝」を殺してきた。さもなければユダヤ教もキリスト教もとっくの昔に消滅していたろう。またジャイナ教の「非殺生」の対象も動物であり、また動物でも四つ足の哺乳類とするなど、さまざまな解釈が加えられ、今日ではほとんど守られてはいない。
 護憲派には熱心なキリスト教徒や仏教徒が多い。信仰を基礎にした護憲論は護憲論として尊重すべきである。しかし、そのそれぞれの宗教においてすら、原則は原則として、弾力的に解釈すべきものだとされる。たとえば、ボンヘッファーの事例である。20世紀を代表する高名なルーテル派のドイツの神学者であるボンヘッファーは、ヒトラー暗殺計画に加担し、ドイツ降伏の直前に処刑された。「汝、殺すなかれ」の実践を誰よりも求められる聖職者が暗殺を計画したということをどきように理解すべきか。日本で最も高名なキリスト神学者の一人である宮田光雄聖戦は、ボンヘッファーの行為をこう擁護する。
 暗殺計画加担が問題とされるのは、「ボンヘッファーにおける平和主義と暴力的抵抗とのあいだに矛盾があると考えるからです。しかし、このことは、ボンヘッファーが無時間的な原則主義的倫理につねに反対していたことを思い起こせば、解消するのではないでしょうか。たとえば、テート教授によれば、ボンヘッファーは、『じっさい、最高の諸原則というものを、-それがたとえ平和主義や平和であったとしても、拒否した。むしろ、現在の状況において、何が生ける神の具体的な戒めとして聞かなければならないか、を具体的に問うのである」(宮田光雄『ボンヘッファーとその時代』新教出版社、2007年、379頁)。
護憲派は、ボンヘッファーのように「最高の諸原則」である憲法9条を拒否してでも、「現在の状況において、何が生ける神の具体的な戒めとして聞かなければならない」だろう。だからといって「汝、殺すなかれ」という教えが否定されるのではない。あくまでも教えは教えとして、原理は原理として、原則は原則として高く掲げなければならない。 
 長谷部や内田が主張するように、憲法9条も「汝、殺すなかれ」と同様に原則として理解する限り、改憲する必要はない。拒否すべきは改憲派、護憲派の「無時間的な原則主義的」憲法解釈である。とはいえ、状況に対応した憲法解釈では、解釈次第では、いかようにも解釈が可能となり、事実上無憲法状況に陥って理想をまったく蔑ろにする恐れがある。理想と現実との甚だしい落差は、「汝、殺すなかれ」「非殺生」との教えがありながらキリスト教徒や仏教徒がいかに多くの殺戮を繰り返してきたかを思い起こせば十分であろう。だから、融通無碍、勝手気ままな憲法解釈ができないように何らかの歯止めが必要となる。改憲が必要とすれば、まさに現状の解釈改憲に歯止めを効かすような改憲であろう。

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June 10, 2015

日本はメロス島になるなかれ

 安倍ドクトリンの問題は、「尖閣と自衛隊の交換」がかつての「糸と縄」の交換のように、日本に国益があるかどうかである。「尖閣」とは対中抑止であり、「自衛隊」とは対米軍事協力の強化である。集団的自衛権をめぐる世論の分裂や国内の混乱を甘受してまで米軍から対中抑止力を今以上に得ることができるのか。残念ながら、厳密には誰にも実証もできなければ反証もできない。しかし、戦史にこの問題を考えるヒントがある。
 かつてトゥキュディデスは『戦史』の「メロス島の対話」の箇所で、アテナイの使者にこう語らせている。「援助を求める側がいくら忠誠を示しても、相手を盟約履行の絆で縛ることにはなるまい、いな、求める側が実力においてはるか優勢であるときにのみ、要請は実を稔らせることになる」(トゥキュディデス『戦史』中公クラシックス、221頁)。安倍ドクトリンの問題はアテナイの使者のこの言葉に尽きる。安倍政権が対米貢献を強化し米国に忠誠を尽くしたとして、それがアメリカを盟約履行の絆で縛ることにはならない。アメリカはアメリカの国益にしたがって行動するからである。ギリシアの昔から同盟の契りは危ういものである。
 それでもなおメロス側が同盟国たるラケダイモンに期待をかけるのは、次のような理由からである。「快こそ善、利こそ正義と信ずることにかけて、かれら(引用者注:ラケダイモン)の露骨な態度はまた世に類ないと言われよう。されば、かくのごときかれらの考えが、現在諸君が理を無視して夢を託す救済などと、相容れぬことは言をまたぬ」とのアテナイ側の主張に対し、メロス島の代表はこう応えている。「しかしわれらは今諸君が言ったと同じ理由により、とりわけラケダイモン人の利益中心の考え方に信を置いている。彼らの植民地たるメロスを裏切れば、心をよせるギリシア諸邦の信望を失い、敵勢に利を与えることになる。ラケダイモン人がこれを望もうわけがない」(同上、220頁)。アメリカが日本を裏切れば、アジアの同盟、友好諸国はアメリカに見切りをつけ、中国との友好、同盟関係を結ぶかもしれない。そうすればアメリカアジアでの影響力を失う。そのような不利益をこうむってまでアメリカは日本を見捨てることはないだろう、というのが日米同盟強化派の心情だろう。
 しかしアテナイ側はこう切り返している。「では尋ねるが、利益とは安全の上に立ち、正義、名誉とは危険を冒してかちえられるもの、と諸君は考えないか。だが危険こそ、概してラケダイモン人ができうる限り避けようとするものだ」(同上220-221頁)。たしかにアメリカは尖閣防衛のために米中衝突という危険を冒すとは考えられない。これに対しメロス側は、「だがその危険でも、われらのためとあれば、すすんでかれらは冒すにちがいない、われらの島はペロポネソスにたいしては戦略的にも近く、また血縁ゆえにわれらの忠誠は他より強い信頼に値するだけに」との希望を述べた。結局メロス島はラケダイモンの支援もなくアテナイによって滅ぼされた。日本は中国にたいしては戦略的に近いものの、アメリカとの血縁は無い。血縁なき日本がはたして血縁があってもラケダイモンの支援を受けられなかったメロス島住民以上にアメリカの絆をあてにすることができるのだろうか。
 日米同盟をメロスとラケダイモンの関係に当てはめるには無理があるとの批判はあろう。しかし、同盟の絆はギリシアの昔から国益に基づく。安倍政権の危うさは、国益よりも自由、民主主義など普遍的価値観を頼みにしていることである。アテナイの使者が「求める側が実力においてはるか優勢であるときにのみ、要請は実を稔らせることになる」と言ったように、日本は日本周辺において専守防衛に徹し在日米軍にできる限り拮抗する軍事力を備えることが肝要ではないか。はるばる海外に自衛隊を派遣する余裕はない。
安倍ドクトリンの最大の問題は、保守派の政治家と思われている安倍首相が実は普通の国を目指すタカ派の理想主義者であり、国益を何よりも重視する現実主義者でないことにある。

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